学者とマスコミが人類を破滅に導く

ではなぜこれまで、専門家の権威に対する社会的認知が持続し得たかといえば、
≪際限なき専門分化≒私権体制の密室化≒生産余力の拡大≫
の構図がかっちりと連動し、結果生み出された社会総体の「ゆとり」の中に彼ら(の身分)が納まって余りあったからでしょう。

 例えば教育において、国家の指導層が挙って「ゆとり」「生きる力」「高度専門職業人」などと唱えて憚らないのも合点のいく話で、「専門家の地位を高め」「自力で私権を目指しもぎ取る力をつけ」「よって豊かでゆとりある生活を自らのものとすること」が目指すべき道である――つまり、私権体制のネジを改めて巻き直せば、事は解決に向かい、己の身分は安泰を取り戻す(はず)という、極めて時代ボケした発想です。

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教育、研究、政治、行政、経済、医療、・・・。これまで当然のごとく専門家に委ねられてきた分野に、「不透明である」という不信の目(社会感情)が向けられています。従来なら成立した≪専門知識→正しい判断≫の命題が今、社会的信用を失っているのはなぜなのでしょうか。
 これは、≪専門家は実は何も判っていないんじゃないか?≫という疑いではないかと観じます。逆説的ですが、例え無類の知識をもってしても、「何が問題にされているのか」のピントが合わなければ、「判っていない」答えを平気で繰り出すことになるのは、当然といえば当然のことです。

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ここで、改めてルソーの「一般意思」をはじめ近代主義者の理想論が挫折せざるを得なかった理由について考えてみて欲しいと思います。また、日本の近代が手本にしてきた西洋の民主主義の現実をよく考えてみて欲しいと思います。

西洋社会は政治システムとしての民主主義制度は日本よりははるかに確立されているのかもわかりませんが、現実は近代以前から現代まで一貫して厳然たる階級社会のままですし、強者と弱者の対立を力の論理で制圧する社会であるという本質は何も変わっていません。つきつめて言えばこれは「他には頼るものはない。結局最後は頼るのは自分しかない。」という「自立した個人」の対立を大前提にした(前提にせざるを得ない)意識(世界観)の産物であり、これこそ個人主義思想の本質ではないかと考えています。さらに言えばこれは狩猟民族として闘争序列を厳格に共認してきた民族性と徹底的な(壊滅的に氏族共同体を破壊しつくしてきた)侵略・略奪闘争を繰り広げてきた民族の歴史の積み重ねによる、西洋人の精神の伝統的本質であるとも考えています。

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