学者とマスコミが人類を破滅に導く

宗教及び近代思想の一つの特徴はその「あるべき世界」を理念として掲げることにあります。哲学用語的に言えば「当為」=「○○たるべき」という認識手法です。
さて何故「当為」の世界が必要になったか?は中々難しい問題ですが、おそらく歴史的には現実世界の可能性の閉塞から来ている認識論なのではないか?と思います。
 
つまり現実の世界を動かす可能性が封じ込められているので、非現実の当為の観念に立脚したということなのでは無いでしょうか?
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>それは、先生が社会人で無いからである。
>そのような先生に教わったところで社会の実際の仕組みなどわかることもできない

私も、“教師”という「教える事専門」の職業には疑問があります。
そして、「教わる事専門」の場である“学校”にも、やはり同様に疑問を持っています。
例えば、学校という特殊空間に、社会人教師が入ったとしても、社会(生産現場)に接していない子供達に、その教師に対する尊敬と一体感(仲間意識)は、芽生えるでしょうか?
尊敬も一体感も感じられないその社会人の言葉や行動は、果たしてその場で有効に機能し子供達に吸収されるのでしょうか?
マスコミや評論家は「大人(教師や親etc)自身がしっかりすること」「大人(教師や親etc)は威厳を持つこと」「子供には目上を敬う気持ちを持たせること」など一見もっともらしいことを云いますが、本当にそれは可能なのでしょうか?

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確かにこのような状態、つまり集団から疎外され万人が敵である状態であれば、個人主義は一定リアリティを持ち得ただろうし、個人を原点に置かざるを得ない事情も理解できる。

しかし問題は,その個人主義が意味を有する現実条件が、現在果していかほど存在するかである。

もちろん現在も出世競争や、個人の利益競争は存在する。しかし現実にはそこに懸けられる個々人のエネルギーは貧困が消滅するともに衰弱するばかりである。それどころか自然志向やフリーター志向など見られるように大衆的にそのフレームから脱出しようというベクトルの方が最早勝っているかに見える。

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