学者とマスコミはグルで頭脳支配

新旧世代での「自我」においてその萌芽の過程と現象を述べました。しかし、単なる分析に留まるのではなく、世代の相違点を踏まえて因果関係を究明し、今後の在り方を模索していくことこそ重要だと、皆さんの返信を読ませて頂き再認識しました。その中でも、

 >(かねてから不思議に思っていたことなのですが)激しい学生運動を繰り広げた団塊世代の「自我」は、彼らが社会に出た途端、どこへ行ってしまったんでしょうか? 会社と家庭を往復する平穏な日々の中で、それは満たされたんでしょうか?

の鋭い御指摘を受けて、「団塊の世代」のその後を振り返ってみました。確かに60年代から70年代にかけては学生運動は最も激しかった時代ですが、(学生運動の詳しい闘争については割愛させていただきます)皆がこぞって参加した訳ではありません。所謂「ノンポリ」と呼ばれるそれらには無関心な学生も多数いました。しかし、イデオロギーには囚われなくても、それまでの封建的な権威や慣習、旧態然とした価値観への疑問は誰しも抱いていたように思います。戦後の民主主義教育の中で「男女平等」「自由平等」が声高に謳われた中で育ち「主体的であること」「自己主張すること」「個性的であること」がなによりも価値あることとして周囲からも認められていたのですから、その「個のエネルギー」は社会にあっては、高度成長を支える企業戦士へ。また女性においてもめまぐるしく社会進出がなされていきました。当時の旧価値観へのアンチテーゼとしてのこの反のエネルギーが高度成長を支えたのではないでしょうか?

にほんブログ村 政治ブログ 世直し・社会変革へ 続きを読む

’70年から始まった私権の衰弱によって、’90年頃からようやく人々の潜在思念が、否定や自我から離脱して、本源充足の可能性へと収束してゆく。

そこで、潜在思念が感じる可能性と、否定の裏返しにすぎない既成観念に対する不信をバネにして、既成観念(=自分の観念世界の全て)を全的に否定し、否定から実現へと思考ベクトルを明確に逆転できれば、思考は実現基盤を求めて必然的に潜在思念そのものを対象化=構造化して新しい『構造観念』を作り出すことが出来る。それは、真の探求者なら’70年からでも可能なことであった。
しかし、その様な知識人は殆どいない。なぜなら、既成観念の全的否定とは知識人にとって自殺行為に等しく、全ての既成観念を否定して大学に留まれる訳がないし、一般企業にさえ居るのは困難だろう。
それは、潜在思念実現回路が発達しており、現実の可能性を直観しているが故に特権知識階級への道を選ばず、現実を(否定も捨象もせず)直視し続けることができた者にしか、出来ないことである。

にほんブログ村 政治ブログ 世直し・社会変革へ 続きを読む

4.そして’70年、貧困の消滅によって否定派の「構造認識」も肯定派(自我派)の「構造認識」も共に生命力を断たれて終う。一言で云えば、考究する原動力となっていた否定意識や自我などの潜在思念が衰弱し、本当に追及したいことが無くなって終った(つまり、思考停止状態に陥った)のである。

にも拘らず、私権の衰弱によって社会的な身分序列の頂点に君臨することになった大学の体制化とそれによる肯定派の増大によって、徒らに対象の細分化が進行し、ますます基本構造の見直しが捨象されて、誤った「基本認識」を生き永らえさせる事になった。

にほんブログ村 政治ブログ 世直し・社会変革へ 続きを読む

このページのトップヘ