学者とマスコミはグルで観念支配している

>それは、先生が社会人で無いからである。
>そのような先生に教わったところで社会の実際の仕組みなどわかることもできない

私も、“教師”という「教える事専門」の職業には疑問があります。
そして、「教わる事専門」の場である“学校”にも、やはり同様に疑問を持っています。
例えば、学校という特殊空間に、社会人教師が入ったとしても、社会(生産現場)に接していない子供達に、その教師に対する尊敬と一体感(仲間意識)は、芽生えるでしょうか?
尊敬も一体感も感じられないその社会人の言葉や行動は、果たしてその場で有効に機能し子供達に吸収されるのでしょうか?
マスコミや評論家は「大人(教師や親etc)自身がしっかりすること」「大人(教師や親etc)は威厳を持つこと」「子供には目上を敬う気持ちを持たせること」など一見もっともらしいことを云いますが、本当にそれは可能なのでしょうか?

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確かにこのような状態、つまり集団から疎外され万人が敵である状態であれば、個人主義は一定リアリティを持ち得ただろうし、個人を原点に置かざるを得ない事情も理解できる。

しかし問題は,その個人主義が意味を有する現実条件が、現在果していかほど存在するかである。

もちろん現在も出世競争や、個人の利益競争は存在する。しかし現実にはそこに懸けられる個々人のエネルギーは貧困が消滅するともに衰弱するばかりである。それどころか自然志向やフリーター志向など見られるように大衆的にそのフレームから脱出しようというベクトルの方が最早勝っているかに見える。

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ではなぜこれまで、専門家の権威に対する社会的認知が持続し得たかといえば、
≪際限なき専門分化≒私権体制の密室化≒生産余力の拡大≫
の構図がかっちりと連動し、結果生み出された社会総体の「ゆとり」の中に彼ら(の身分)が納まって余りあったからでしょう。

 例えば教育において、国家の指導層が挙って「ゆとり」「生きる力」「高度専門職業人」などと唱えて憚らないのも合点のいく話で、「専門家の地位を高め」「自力で私権を目指しもぎ取る力をつけ」「よって豊かでゆとりある生活を自らのものとすること」が目指すべき道である――つまり、私権体制のネジを改めて巻き直せば、事は解決に向かい、己の身分は安泰を取り戻す(はず)という、極めて時代ボケした発想です。

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