●まず、対象化すべき=追求すべき現実世界は、私権(闘争と身分)社会であり、私権の追求が現実の唯一の追求課題となる。

●他方で、失われた本源充足を頭の中だけで取り戻し代償充足を得る為に、頭の中の本源価値を対象化した倒錯観念が作られ、人々は倒錯観念に強く収束すると共に、その倒錯観念がどんどん精練され、観念回路を覆い尽くしてゆく。
私権追求に収束した現実の存在と、頭の中の倒錯観念に収束した非現実の意識とは、完全に分裂し断絶している。にも拘らず、倒錯観念で覆い尽くされた意識は、自分は(観念信仰の下に)統合されていると言い張る。しかし、しょせん倒錯観念は、失われた本源価値の代償充足でしかなく、その虚しさは消し様もないし、その現実との断絶は隠し様もない。

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●ところが、この倒錯観念が人々を強く収束させた支配観念となった以上、現実の私権闘争や身分確保の為には、この倒錯観念を巧みに操って己の私益を正当化した方が有利である(私権時代初期の神権政治が、既にそれを象徴している)。かくして、主張や説得や議論が(統合階級を中心に)不可欠になる。
●つまり、私権闘争と倒錯観念が、現実や行動を捨象した観念思考を生み、更に主張や説得や議論を作り出したのである。
●近代が、私権闘争をより自由に解放した時代であり、従ってますます観念思考や自己主張や議論をはびこらせていった時代であったことは、云うまでもない。(但し、本源価値に立脚していた倒錯観念は、自我性闘争に立脚した欺瞞観念に換骨奪胎されて終う。)
私権時代(特に近代)の主張や議論とは、欺瞞共認を形成する(事によって私権闘争で優位に立つ)為の様式にすぎない!

●そして’70年、貧困が消滅して私権が衰弱し始めるや否や、欺瞞観念(恋愛、自由、個人、民主)は一気に輝きを失い、私権の衰弱が誰の目にも明らかになった’90年以降、もはや「一流」作家の言葉さえ、虚しいだけである。ましてや、会議室での素人の(観念思考の産物たる)言葉など、見向きもされないのは当然である。
注:自我闘争で優位に立つ為⇒欺瞞共認を形成する為の自由な議論の象徴(行き着いた必然)が、2ちゃんねるである。


岡田淳三郎