学者とマスコミが人類を破滅に導く

2012年11月

不全発の変革意識に対する疑問が浮上した所で、改めて社会運動を総括してみる必要がある。

考えてみれば、史上、社会運動は一度も実現されたことがない。つまり、史上の「社会運動」は全て偽物である。とすれば、「社会運動」の奥には大きな欺瞞が隠されている筈である。

1.原始時代は、祈るだけしか出来なかったが、それは近代の「否定するだけ・要求するだけ」とは全く異なる。原始人は、集団が一丸となり、潜在思念の全てをかけて自然を対象化しているのに対して、近代人は自我に基づいて社会を否定しているだけである。
同類闘争という観点から見ても(そこでは当然、敵に対する否定意識が存在するが)、それは直ちに闘いに直結しており、近代の様に要求するだけという状態は有り得ない。

続きを読む

>これを読んではっとさせられました。今まで「運動」というと、「反」「否」「不」といったマイナスから発生する胡散臭いイメージでした。
(19844 村上さん)

なるほど、確かに言われてみるとその通りですね
運動と言うと、何かキナ臭いようなマイナスイメージしか出てこない原因がわかった気がします

19864で庄さんが70年代全共闘世代の運動理念とも言うべき「否定意識」について書かれていますが、「否定意識」はこの70年代に限ったことでは無いようです
歴史を振り返れば、運動や革命と名のつくものは全てこの「否定意識」を原点にしていたのでしょう

続きを読む

>現実を否定視しない者ほど既成観念の否定は容易であり、現実を否定視しない者ほど、現実の可能性に立脚し本当に現実を動かしている。

不全派の僕がいうのもなんだが、不全発の課題意識は確かに展望がない。何故なら不全を患った人々はお互いの意見に否定的だからだ。(左派運動の分裂の歴史を見よ)万が一にも連帯があるとしてそれは傷のなめあいか、ドーパミン支配の熱病がいいところである。(きっとサルの時代から全共闘までずっとそうだろう)

以前、課題意識と問題意識という話を仲間としたことがあった。現代の不全は、根底的であっていまさら近代思想にもとづく社会変革の課題意識でどうこうしようと思ってもどうしようもない。既成観念に支配された課題意識ではなくもっと根底的な問題意識の地平を持つ人々がいるのではないか?

しかし、今思えば問題意識という深い欠乏を抱えながら日常を生きることは想像を遥かに越えた苦行であろう。勢至翁がいうように、なんとなく既成観念を捨象しただけではマスコミ=神官階級による新しい衣装を着た流行観念(表面は新しくコーティングされているが実は古い観念の焼き直し)によっていつのまにか旧観念の支配下に引き戻されてしまうからだ。‘80年浅田彰(それはつまるところ消費礼賛=個人主義であった)’90年宮台真二(それはつまるところ自己決定性という近代自我観念の追い詰められた終末的言語だった)…これらの中途半端な近代批判を超えた倒錯観念の全否定、そして構造認識に対する需要は潜在的には大きいのではないか?

続きを読む

>今までの運動がことごとく失敗に終わったのも、一言でいえば状況認識の甘さとその誤った状況認識からの戦略戦術が稚拙であったことに帰す。<(19718上平さん)

今の社会状況は問題だ、だから変革が必要だ。これは一見正論に見えます。しかし、その意識の根底に「今の現実が嫌で嫌でしょうがない」という自分自身の否定感情があり、その負のエネルギーをバネにしてきたのが、これまでの幾多の運動だったのでしょう。

このような否定思考は、その反動としての「理想像」を頭の中に捏造しがちです。それが逆に現実の的確な状況認識を妨げ、また現実の中にある可能性をも見失ってしまう、だから運動は失敗する、という因果関係ではないでしょうか。

続きを読む

>社会は急激にそのシステムを変革しなくてはいけない状況に成ってきました。 (つまり新しい価値観が必要なのです)

  ■急激なデフレ,
  ■結婚をしなくなる
  ■離婚も増える
  ■子供が激減
  ■高齢者が急増する。

これだけの,急激な社会変化に,今までの社会システムはなすすべを持っていません。

新しい,社会システムが必要であることは,皆が薄々感じている。<

続きを読む

このページのトップヘ