学者とマスコミが人類を破滅に導く

2012年12月

経済学自体は、小西さんご指摘のようにやはり現実とは大きくズレた学問であることは確かです。

経済学はここ数年ずいぶん変化もしたと言われていますが、その核心にあるのは市場均衡の考えかたであることは間違いありません。これはアダム・スミスによる「経済学の誕生」以来なにも変わっていない。
特にアメリカ経済学の最大の神話、「それは市場経済自体でもうまく機能する」であり、そして「国家も政府も不要である。結果としてグローバリズム」に行き着きます。
これらアメリカ経済学者の強調するところでは、この「市場競争が望ましい」は「科学的」命題という主張となっています。「科学」であるからそれは歴史や空間や状況に拘束されない。つまり市場理論は、アメリカで誕生したものの、それは世界中で普遍性をもっている、それは日本であろうとロシアであろうと普遍的に妥当するというのである。言い換えると、市場をとりまく環境がいかなる政治制度であろうと文化や社会構造をもっていようと、それはとりもなえおさず市場さえ形成されれば、それはどこにおいても妥当する、ということだ。市場は文化、社会構造、人々の価値観、こうしたものとは切り離して分析できるというのである。

続きを読む

>要するに、実現の為の構造論は、現実否定の鎖を断ち切られることによって、初めて輝き始める。

私権時代カテで歴史を考えながら思うことだが、「これまでの文字になって記録されてきた歴史とは支配者の歴史であって、庶民からの見た歴史を、非文字の資料から再考しないといけない」という風潮が最近は強い。
しかし「現実否定の鎖を断ち切る」⇔「倒錯観念の全否定」という視点で考えると、「庶民の歴史」というのは反「権力の歴史」であって旧パラダイムの枠組みを抜けきっていないというべきではないだろうか。「戦争」に対して「平和」を、「国家」に対して「村落共同体」を、「農耕」に対して「縄文」を対置して考える思考は、前者をマイナス視し後者を理想視することで「知識人の教養」となりはするが、「現実の答」たりえない。
なぜなら「力の論理」を超えた「社会統合理論」の必要性といった認識にいたる為には私権時代の主力モーターであった庶民自身の私権欠乏をも否定する必要があるが、庶民を美化する限りこうした認識には到達し得ないからだ。

続きを読む

●現実(人々の下部意識)を否定or捨象する倒錯思考を止め、倒錯観念を捨てて現実(下部意識)を肯定的に対象化する。
●あくまで現実に立脚し(=現実を受け容れ)、決して現実を否定or捨象することなく、現実(可能性とその壁)を対象化する。

それは単なる現状維持の現実肯定ではない。現実を閉塞させている倒錯観念を全的に否定している。
それは、単なるプラス志向ではない。現実の不全(危機・閉塞)をも、全的に対象化している。

続きを読む

>やはり、人間の意識を把握しないと、経済学も含め時代は語れないと言うことでしょう。

今の経済学が終わっており、古臭いものになっていることは、みんな分かってますし、批判するだけなら(学者自身が自己否定しなくても)子供でもできます。古典派経済学以降、サプライサイド、マネタリズムなど、いろんな学派が登場して学会の論争は賑やかなようですが、どの理論も現実の財政赤字の問題、不良債権の問題などの出口の見えない構造不況の問題やグローバル化による国際不均衡の問題などに答えを見出せていないという点から考えて、現実にそぐわなくなっていることは誰の目から見ても明らかでしょう。

続きを読む

>最低なのは、ニュースキャスターや評論家が出てきて、もっともらしくニュースを「解説」するやつです。問題を掘り下げるでもなく、可能性を追求するでもなく、単に傍観者として評論しているだけの態度には、正直うんざりしてしまいます。<(雪竹さん)

私もうんざりしつつも見ていたりします。

ニュース番組には速報性が重視されるという限界があり、話題が新鮮なうちに背後関係を含めて解明するというのはなかなか難しいと思います。これは、ニュースをただ消費しているという視聴者側の姿勢も問題です。しかしこれは、受けて側よりも送り手側の姿勢の問題であると思います。

昨今、当たり前のようになったキャスターの解説付きニュースというのは、そのはしりはTBSのニュースコープ(S38)、NHKのNC9(S49)で、一般的になったのはニュースステーション(S60)以降です。
続きを読む

このページのトップヘ