学者とマスコミが人類を破滅に導く

2013年02月

現在の風潮として、これからの時代に求められている人材は、オールラウンドに物事を考えられる人間であり、極度の専門分化は悪であるという考えが広がっているように思います。

しかし、重要なことは、専門分化を排除することよりも、専門家の意識転換がまず第一に問われるべきことのように思います。

私権社会においては、専門家が、専門の利を生かして得た情報は、自らの特権性と地位を築くために利用されていたのではないでしょうか。今日の社会と専門家の間にできた大きな溝は、専門家が自らの特権性を守るために、諸問題から専門外の視線を排除し、より強固な特権性へと慢心していったことから生じたように思います。こうして広がった大きな溝が、今日の専門分化からオールラウンド志向への移行につながっているように思います。

重要なことは、オールラウンドに物事を考えるという視点はもちろん、全ての人間があらゆる社会問題に関心をもち、発言権や変革していく力を有することは当然のことであるという認識に移行していくことであり、教育・環境・高齢化といったさまざまな社会問題に対し、各分野の専門家が、自分たちのみが問題解決を担っている存在だという意識を捨てることだと思います。

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既に述べた様に、人類の命綱は共認にあり、従って認識形成こそ社会形成の生命部である。ところが、これまでは人類の命綱である共認形成の要(かなめ)の位置に、学校(教師)や大学(学者)やマスコミ(報道人や文化人)が陣取り、一握りの知識階級が人々を染脳し、共認を支配してきた。

しかし、学者や文化人やマスコミは、教育や研究や発信を業とする特権階級であり、社会の単なる傍観者に過ぎない。決して現実社会を生きる当事者なのではない。
まして、傍観者に過ぎない特権(知識)階級が供給する情報をひたすら消費してきた読者・観客は、当然のことながらもっとひどい傍観者に成り下がってゆく。事実、昔からインテリとは、何事に対しても傍観者を決め込む、最も腰の重い連中の代名詞である。
だが、何事も批判するしか能がなく、従って何一つ実現できたことがない只の傍観者に、現実社会の真の姿が見える訳が無い。
案の定、彼ら学者や文化人やマスコミは認識を誤り(もともと彼らは現実離れした誤った認識しか持っていなかったが)、その誤った認識を人々に植え続けて、遂に人類滅亡の危険さえ考えられるほどの全面的な閉塞状態に人々を追い込んで終った。当然のことながら、かかる危機状況に至っても、彼らから答え(=新しい認識)が出てくる気配は全くない。

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昔「高踏主義」を標榜する知識人の一群がいた。巷=俗世の欲望の渦巻きから身を引いて観念的探索(感応観念を紡ぐ)に埋没する人々である。
しかしそれは彼らのみならず、知識人一般に広く見られ、かつそれが知識人のあり方として正しい、とされていた。
そして一昔前から現在にかけて、新聞の売り物は中立・不偏不党であった(実際にそうであったかはここでは問わない)。社会に対する監視人=チェックマンとしての自己規定=基本姿勢である。
それらによって、社会に対して観察者=傍観者であることがいわば正当化されていた。それどころか、それが一歩高みに身を置いた高尚な姿勢であるかのようにもてはやされていた時代であった。

しかし、この間の四方氏の投稿を初めとするこの掲示板の流れは、それらの姿勢が根本的誤りであり、過去の遺物でしかないものであることを明らかにしつつある。

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「自由」や「人権」以外にもまだまだ欺瞞観念が蔓延っていますね。

例えば
ある環境団体のホームページにはこのようなことが書かれていました。

>「自分のできることから実行する」
省エネ、節電、マイ箸を持つ、買い物袋を持つ、無駄や贅沢や飽食をやめるなど、できることから始めましょう。<

その行為自体を否定するつもりは全くありません。
しかしその行為が環境にやさしいとか解決の第一歩と捉えることに大きな過ちがあるのです。一向に解決しない現実の答えになっていないのです。
肝心の過剰消費を問題として取り上げてはいますが、根本原因を追求することなく、短絡的に個人が何か目に見える行動を起こすことで正当化される。
欺瞞観念が思考停止の免罪符になっているのです。

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「市民」という言葉、「市民革命」という言葉を私は世界史上で習ったと思います。そこでこの言葉について少し調べてみました。以下は引用です。

>みなさんは「ピューリタン革命」や「アメリカ独立戦争」「フランス革命」について、中学や高校で習ったときのことを覚えているでしょうか。中学や高校の教科書ではこれらを「市民革命」として説明しています。そして、中学や高校のほとんどの社会科教員は、「市民革命を通じて、民主的で自由・平等な社会の第一歩が踏み出されたのである」と教壇で熱っぽく語ってきたのです。

>それぞれの「革命」の中心となった人々は、イギリスでは「地主ジェントルマン」、アメリカでは「植民地エリート」、フランスでは「ブルジョワ化した貴族」たちであり、それらの人々を「市民」という言葉ではくくれないのです。

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