学者とマスコミが人類を破滅に導く

2013年03月

> そして「豊かさ」が普遍的に共認された目標となると、恐ろしいことに、もはや誰もそれが『必要か、必要でないか』などと考えなくなる。(33821

 この指摘は、現在の社会体制が、いかに非人間的であるかを、的確に示しているように思う。

◆「選択肢」から選ぶだけの「自由」

 市場経済の繁栄によって物的な豊かさが完成し、また社会保障制度が浸透し国家による福祉の恩恵が行き届くようになる。
 しかし、結果として、人々は既製の選択肢から選び取るのみの、消費社会ができあがってしまった。

 人々は、「選択肢から選ぶこと」を「自由」と呼び、この「自由」を何よりも重要だと思わされてきた。
 そして、就職や、選挙制度や、日常の娯楽を見れば明らかなように、自由に生きることとは、マスコミや専門家が作った「既存の選択肢」から選ぶことと同義になってしまった。

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岩井さんのグランドセオリーに関する一連の投稿。興味深く読ませていただきました。

グランドセオリーに関する議論がなされず、タコツボ化した専門分野の確立へ向かった背景を考えると、「自我の確立」ということが、人類の確かな歴史的考察も議論もなされないままに暗黙のうちに良しとされ、重要なものとして人々の心の中に深く根付いてしまっていることが、根本的な原因のように思います。

自我の確立」そしてそこから派生した「相手の尊重」という意識は、まさにタコツボ化が進行した元凶をなすもののように思います。現状の中では、より細分化された重箱の隅をつつくような場を築くことによって、ついに自我の確立を見出すことが可能であり、自分の専門領域に引きこもってしまうことや、お互いに不干渉を決め込んでしまう状況も、「自我の確立」と「相手の尊重」が絶対視された結果ではないでしょうか。

自我」に縛られた状況では、「統合」とは正反対の方向に進むことでしか充足を得ることができず、その結果が自らの専門領域を囲い込み、他の専門分野に干渉しないという現在の状況では、グランドセオリーへの視点が薄れていくのも当然のように思います。

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>お金は(決して認識の質を測るモノサシなのではなく)、現実の必要度を測るモノサシとして機能するのである。

以下は6月10日の毎日新聞夕刊に載った、呉智英氏の記事です。
>先日、ある新聞の投書欄に、本の定価が高すぎないかという主婦の意見が載った。書評で知った本を書店で見ると1500円もしている、家計をあずかる主婦には痛手だ、というのだ。これに類した声は他でもしばしば聞く。何年か前、ある女性作家が、昔にくらべて本は何と高くなったものかと書いているのを見て、驚いたことがある。彼女は、先の主婦とちがい、年収何億円の大ベストセラー作家なのだ。
>本の値段は、ここ1世紀、一貫して下がり続けている。大正15年(1926年)年末に「円本」ブームが起きた。1冊1円の文学全集である。現在の5、6千円に相当する。それが安いというので売れに売れたのだ。戦後に限っても、私が学生だった1970年ごろ、単行本は4、5百円のものが多かった。大卒初任給が8倍ほどになっているから、現在の3、4千円である。マンガ雑誌は80円前後だったから、現在の6百円である。しかも当時はページ数も少なかった。本は明らかに安くなっている。

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「想像して見たまえ。自分が抱きしめられるのか、殴られるのか分からないまま、母親の手が真っ直ぐ自分に向かって伸びてくる状態を。君が幼児なら、どんな気分になるだろうか?」(33051三宅さん)

のこのダブルバインド状態・・・・・統合不全を強いられる

いま、投稿を読んで知りました。

確かに多かれ少なかれ、この状態は、誰にも存在すると思います。
ダブルバインド状態といえるかどうか分かりませんが、人から言われた規範が、社会共認・規範から大きくづれていて、断層や矛盾、葛藤を生んでいることも多々あると思います。

例えば、

「みんなと仲良くしなさい」と言う半面、
「受験勉強で、人を蹴落としている」という意識。

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>学者や文化人やマスコミは、教育や研究や発信を業とする特権階級であり、社会の単なる傍観者に過ぎない。決して現実社会を生きる当事者なのではない。(32569

この端的な認識は、今までいろいろな事象を思い込みで見過ごしてきたが故に抱えていた不全に対してスッキリしたものを与えてくれます。
そして、彼らは、傍観者に過ぎないにもかかわらず、現状維持を強固に図ろうとする力に加担するマイナス要因としての存在であることを理解させてくれます。

例えば、誰しもが多かれ少なかれ日常の仕事の中で疑問に感じながら見過ごしてきた1つに“行政指導や通達等”というものがあります。
今まではこの行政指導や通達については仕方がない当たり前のことのように思っていましたが、これは、官僚が、誰も認めた覚えの無い特権をあたかも当たり前のように行使していることではないでしょうか。
なぜなら、官僚達は、自らつくった法律を当の本人が解釈をおこなうといった権限によって、行政指導や通達や許認可権などを駆使し、企業の活動をあれこれ規制できる生産と流通のコントロールシステムを操つることができるのです。

なぜ、誰も選んだ覚えのない者にこのような権力が当たり前のように存在しているのか?

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