学者とマスコミが人類を破滅に導く

2013年06月

自由に話し合えて面白い。」
「人それぞれの意見が聞ける。」

先日、学生と話しをしていて、あれっ?って思いました。

今ある言葉は、旧観念が作ってきた言葉。
色んな(=360°)方向の可能性を探り始めている言葉(49533)が、旧い言葉と混じってしまっている。

旧観念に染まってない世代は、目上の人から聞く言葉を使ってみるが、大人(親や教師)と意思の疎通ができないと不全を抱えている。その学生も、大人と話す時は、無意識のうちに旧い言葉で話さなくては・・・って、使ってはみるもののうまくいかないみたいです。

以前の投稿にもありましたが、

>うそー、ほんとー、まじぃー、っていうかぁ、みたいなー・・・

>若者の言葉が乱れている、嘆く声をよく聞きますが、これは旧観念からの脱皮現象だと思います。

今は、潜在思念を共認する言葉は、“感覚言語”(=体感・実感の言葉)になります。しかし、それでは、旧い世代にはわからない。

だから、旧い世代も新しい世代も、旧観念無用で新しい言葉を吸収して使う事によって、共認不全を突破していけたらって思いました。

改めて新しい言葉の必要性を感じました。

藤本正義

「人それぞれ」は、もう終わってると思います。

似て非なる言葉として、一時交流会etc.の参加者の、ほぼ共通する感想としての「色んな世代」の「色んな意見」が聞けて楽しかった・嬉しかった…。

「人それぞれ」が役にたたないから、色んな(=360°)方向の可能性を探り始めているのだと思います。

人を拒絶する言葉は、誰でも察知し、悲しくなる。
期待まじりの言葉は、みんなを嬉しくし、やる気にさせる。

不全の中で、みんな、共認の原点にいるのかなと思います。

 
田中直人

私権時代であれ、どのような集団であれ、成員がそれぞれバラバラでは存在することなどできない。それが私権時代固有のカタワの目標であれ、共認なしには集団も社会も形成できない。(石野さん49195

確かに集団であれ、社会課題であれ、目前にある問題を正面から見据えそれを解決する為に皆で頭を使う、つまり当事者としてこの様な闘争過程に関わるのであれば、およそ「人それぞれ」などと言う言葉は登場する余地がありません。そのような場面であれば目の前の状況をどう捉え、その原因を追求し、突破口を考えると言う方向に思考ベクトルが働く筈で、そこではどれだけ事実に肉薄できたか、より実現確率が高い答えに迫れたかだけが問題となり、個々の意見は実現可能性というベクトル上で淘汰精錬され、ある方向へ収斂していきます。
その意味で「人それぞれ」は現実=闘争過程を捨象した、「傍観者」の観念であることは間違いの無い事実だ、と私も思います。
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確かに、最近テレビが面白くないと感じます。(事実、私はテレビをあまり見ません)マスコミが視聴率獲得の為に発信する情報、評論家などの発信者階級が撒き散らす的を得ない旧観念、それを受けることによって起こる受信者の発信欲求、人々の意識の変化。様々な要因が考えられます。

 しかし、私はテレビ及びマスコミはあまり変わっていないと感じています。例えば、過去においてもマスコミは視聴率獲得を目的としていました。そして、ニュースは現実を映し出す発信媒体として、少なからず新しい認識を得るために役に立っていると感じています。(もちろん、役に立たない番組も数多くあり、過去に比べ多くなってきたと感じていますが)

 では、なぜテレビは面白くないのでしょうか?それは、現代社会の全面的な閉塞状態にあると私は思います。不況が続く現代社会において、また、社会不全が蔓延する現代社会において、マスコミは暗い情報を発信しがちになり、発信階級はそれをただ否定するだけ。解決策が見えない。答えがほしい。私には、マスコミや発信階級も新しい認識を必要としているように感じられるのです。そして、答えが見えないまま情報を発信し続けている今のテレビは、活力を失い、魅力さえも失ってしまっているのだと思います。
 
 過去を見ても、今現在ほど新しい認識が求められている時代は無いと思います。新しい認識は見知らぬ人々との交流によって少しずつ確立されていくでしょう。実際、テレビが面白くないことによって、こんなにも多くの人々が意見を出し合い、それを通して新しい発見ができる。新しい認識として広がっていく。前に進みだした人々は共認し合い、さらに前へと進んでいく。それが人々の活力源となると思います。

阿野維規

旧観念が生まれてきた歴史的背景には、初めから、現実には目を瞑る、つまり傍観者にしかなり得ない構造が潜んでいます。それは、善悪を超えたひとつの事実として、おそらく誰もが認めることのできる認識だと思います。

現代においてほとんど全ての人たちが「自分たちは自由」だと思っていると思います。しかし、その「自由な人たち」が何故この閉塞した社会を変えることが出来ないのか?そうした中で「ひょっとして自分たちは自由じゃないのか?」と考える人もあまりいないように思います。

>傍観者にしかなり得ない構造が潜んでいます。

本当に怖い事です。「自由」という価値観念は、もともと統合階級からの支配から逃れるための思想であったためそれ自体が最終解答であったかのような倒錯観念として人々に根付いており、そのことがそれから先の思考を停止させている。今回土山さんの投稿を拝見して改めてその構造がすごく理解できたように思います。

>否定視(=実現できないこと)を暗黙の前提にした感受性や思考方法が傍観者意識の正体であることを証明できるところに構造観念の切れ味の秘密があるように思います。

旧観念には私権の強制圧力、倒錯観念と様々な要素を孕んでおり「傍観者から当事者へ」「旧観念無用」のハードルの高さと重要性を改めて認識させて頂きました。
 
マー

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