学者とマスコミが人類を破滅に導く

2013年06月

過去から現在に至るまで、「人それぞれ」であることによって何かを実現できたためしはない。実態として「人それぞれ」とはどんな状態なのであろうか。

家庭を構成する家族が、みんなそれぞれ勝手に生活しているのであればそれは家庭崩壊というのではないのだろうか。学校ならば学級崩壊である。
市場における企業には、「利潤の追求」という、成員の共通目標がある。仕事は「人それぞれ、好きなようにやっていれば良い。」などと考えている人などいない。お金のためであれ、なんであれ共通の目標に反する行為など許されない。

私権時代であれ、どのような集団であれ、成員がそれぞれバラバラでは存在することなどできない。それが私権時代固有のカタワの目標であれ、共認なしには集団も社会も形成できない。

とすれば、「人それぞれ」が可能な世界とは、私権社会固有の貧しい目標から離れた、解脱空間や頭の中だけの代償充足としてしか存在しない。

「人それぞれ」というのは現実捨象である。

今、目前に広がる現実の不全が、種としての適応不全であるにもかかわらず、「人それぞれ」と捨象するならば、それは滅亡種を自認するに等しい。代償充足に埋没するだけなら、ただ退化した種にすぎない。

実現の可能性が開かれたているにもかかわらず、その基盤を封印しようとするならば、それは敵対種でしかない。


石野潤

テレビが面白くない理由を考える前に、テレビはなぜ必要なのかとうい疑問が湧いてきた。私はテレビは様々な情報を得るためのものだと考えてきたけれども、実際テレビの情報が正確どうかなのかどうか、私が今必要としている情報だけを得ることができるのか、と考えるとテレビを見るよりも新聞やインターネットだけで十分なわけであって、テレビの必要性や信憑性がなくなっていることがテレビが面白くない理由になってきているのではないかと思う。

>届けられるニュースもマスコミという機関を媒介させることで、我々に届くニュースにはマスコミ自体の先入観や余計な尾鰭までが付いてきてしまう。(38083)

テレビからの情報は私たちに一方通行で、反論することもできないし、第一信じられる情報なのかどうかもわからない。マスコミからの情報は単なる社会の傍観者が実際の社会では全く利用価値のない旧観念を私たちに押し付けたり、社会の問題を提示するだけで、考えるのは極わずかな専門家に任せたままで、一向に自ら解決する手段を見つけようとしていない。現実の当事者ではなく傍観者に過ぎないのである。そして私たちは、その問題が全く解決されていないのにも関わらず、問題提議を聞くだけで、ある種の知識を得た気になってしまう。社会の問題を考え、意見を交換する場所がないのが現状である。

>つまりマスコミは単なる現実の傍観者だけであるばかりではなく、もっと性質の悪いことに現実の一部を切り取って、それを面白おかしく針小棒大に語る三文小説脚色家なのだ。(38441)

実際にはみんなが自分の意見や考えを胸に秘めているのに、テレビが流す情報によって、自分で考えるという能力が低下し、その情報で満たされた気になってしまう。マスコミが垂れ流す旧観念の情報を信じきるがゆえに社会の問題への問題意識がなくなるいっぽうで、新しい知識や認識を見つけようとする意欲そのものを失ってしまうのである。だから現在自分の中に存在する知識や認識でしか生きていけなくなってしまう。テレビの情報が人間の考えることの幅を狭め、生きて行動する意欲までもを失くしてしまうのである。

人間は様々な情報を自分で考え、同じ実感を持つ仲間と共に共認を広げることでその情報が正確かどうか、自分に必要な事象なのかどうかを見極め、新しい認識を得ようとする必要がある。このるいネットこそ異なる年代の人々と意見を交わし、新しい知識や認識を得られる場である。自分の考えに縛られずにみんなの意見に耳を傾け、常に新しいより良い認識を得ようとすることこそが人間のあるべき姿なのである。だから根も葉もないない噂ばかり流し自分たちでは何もしないマスコミが放送するテレビは面白くないのだ、むしろテレビは人間が考えること麻痺させる一種の病原菌なのである。

前田真一朗

投稿する時も、普段しゃべっている時もなんですが、思っていることを言葉にすると、何故かしっくりこなかったり、いつもなにか違うなぁーと感じたり…必ずと言っていいほど、思いと言葉がズレてしまいます。こんな事、言いたいんじゃないのになぁと思うことが多かったのですが、交流会に参加してみると、みんな同じ苦悩を抱えていました。

主に学校で教わってきた中身の伴わない旧概念語しか知らないから、実感を言葉にすると誰もが気持ち悪い感覚がするんだと思いました。

旧観念こそ閉塞の元凶(るいネットトップページ) (48982冨田さん)
旧観念しか知らない為、思っている事すらまともに口にできないわけですから、閉塞してしまうのも当然なんだろうなと思います。
人類が初めて言葉を獲得した時のように、現実をまっすぐ対象化した言葉が今、もっとも必要とされているんだと思います。

今まで、無理矢理、旧観念語を使っていましたが、現実に使える言葉=新概念の登場→獲得によって、生まれて初めてやっと思いと言葉が同じになるんだと思いました。

岡田理恵 

テレビが面白くない。私がこう感じ始めたのはいつからだったろうか。
私はドラマを見ることが嫌いではない。しかし今までどんなドラマを見ても、最終回まで見続けることはほとんどなかった。友達との会話を弾ませるために見ることはあっても、自ら進んで最後まで見ようとは思わなかったのである。そして今回もそうだった。1月から始まった新ドラマを勢いづいて見てみたものの、2回目以降私がそのドラマを見ることはなかった。

それは何故か。何故ならドラマにはリアリティーというものが全く無いからだ。ありもしない状況を並べたて、1時間も架空の人物の物語に付き合わされた結果、私が得るものは何もない。強いて言えば「こんなことあるかよ!」という、ツッコミのタイミングくらいのものである。テレビは私たちの現実からかけ離れた、遠い存在のものでしかないのだ。

私たちは現実の世界に生きている。そしてそれはきれいごとの世界ではない。人間の欲望による戦争や飢餓、貧困、暴力など、全てのものをひっくるめて現実は存在しているのである。そんな現実の世界に身を置いている私たちにとって、テレビというぬるま湯の空想の世界に浸っている時間はない。現実はテレビの中の世界ほど甘いものではないのだ。私たちが本当に必要としているもの、それは空想の世界での答えではなく、現実の世界での答えなのである。そしてその答えを探すためには今現実を生きている人、私たち自身が声を上げ、先を読み、動き出す必要があるのだ。

私の友人にテレビを手放せない人がいる。画面の中で絶えず笑っている人を見て安心するのだという。私が今度その友人に会ったら、「私たちは空想の世界ではなく、現実の世界に生きているんだよ」ということを教えてあげようと思う。

長澤祐美子

翻って私が仲間と主催した認識交流会はどうであったか。

交流会に来ている人々の求めるものが答えならば、それを考えるための道具である根概念を勉強してもらうことは不可欠。ところが旧観念の衰退のせいで人収束は強まれど、活字離れ、観念捨象は進んでいる。だからもはや旧観念無用など語るまでも無いことだと思っていた。そこで旧観念派が少ない場合は、旧観念無用はとばして、集まった人々が求めているものが集団を超えたつながりであり、つながり欠乏の本質が「みんな不全にもとづく、出口がほしい、答えがほしい」という欠乏である→答えを考えるために「新観念」の勉強の必要。という流れで話していた。

しかし確かに参加者の充足感は伝わってくるものの相手の閉塞を正面突破していないなあ、新観念の勉強欠乏を顕在化させるにはもう一つなにか足りないという印象も残った。

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