学者とマスコミが人類を破滅に導く

2013年08月

>ある主張によって導かれた権利の法制化によって、主張していない普通のひとは順法義務の枠にはめられてしまいます。‥こんなことになったブラックボックスは法曹界なのではないでしょうか。

人権が架空観念に過ぎないことは指摘の通りですが、法学自体がこの架空観念を絶対真理化し現実を裁く理論体系であり、現実にありもしないものを前提に現実を体系化しようとすると自己矛盾を起こしてしまうのは必然だと思います。法律とは何かを考える時、以前の投稿が参考になります。
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”自由→権利主張→法制化→遵守義務”

 つまり、ある主張によって導かれた権利の法制化によって、主張していない普通のひとは順法義務の枠にはめられてしまいます。もはや、その法律の全貌さえ、専門家でさえつかみきれず、厳密に精査すれば、誰もが法を犯しているという状態です。もう、社会規範という次元ではなく、これをもって高度に進化した法治国家であると言えるのでしょうか?前提となる邪心の裏返しが法律という形になっただけではないかと思います。
 
 新しい社会観=みんな共認に気づき始めた今、この旧い枠組み自体に違和感を感じるひとが増えてきたのも当然だと思います。
 いったい、法学者とか裁判官とか弁護士とかの法律屋さんたちは何を考えているのでしょうか?こんなことになったブラックボックスは法曹界なのではないでしょうか。その辺りに、強い疑念を感じます。

鈴木康夫 

今までそれがあたかも「当たり前」であるかの様に信じ込まされてきた事がなんと多いことか。

最近話題の権利やマナーについても、みんながこんなに違和感を感じていたなんて知らなかったし、自分自身も「そういえば何かおかしい」とあらためて気付かされた。

言われてみて初めて「そうか!」って気付く。何となく違和感を感じていたり、おかしいと思っていたりすること、いやそれさえ感じずに何となく「当たり前」だと思い込んでることってほんとたくさんあるんだなあ…と最近本当によく思い知らされる。
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「セクハラ」にしろ、「嫌煙」にしろ、それが法律化されてしまった後になって「そうなったんや。」とはじめて知ることが多い。知らないうちにというより、法律化するほどのことかと感じ、そして関心はない。

>最も多数派を占める健全な人たちは、何も主張しないことをいいことに、まったく本意ではないことの片棒を担がされ、結果的には、新しくできた法律を強要されては、社会に対する違和感を募らせていることになります。

最も多数派を占める健全な人たちが『何も主張しない』『関心がない』ということ自体、みんなの答え(意見)なのであって、それは『何となく・・・』という本源で感じている一番大切なモノのはずである。しかし、『何も主張しない』『関心がない』ということは意見無(ゼロ)とされ、ほとんどの人が関心のない「~が嫌だ。」は意見有とされる。
そして、最も多数派を占める健全な人たちにとって関心のない問題を解決することが法律であり、だからこそ、法律なんてと無関心のままにしていたし、それほど意味ないものとしているのだろう。

>でも知らないうちにそれが法律にまでなってて、強制力をもってしまった結果、みんなそれに怯えたり、それで一生を台無しにされてしまう人だっている。

しかし、西さんも言うように、関心が薄いはずの問題も法律になってしまうと、それに怯えたり、それで一生を台無しにされてしまう人だっている。何だかおかしいと感じているものに振り回されるのはやっぱりおかしい。『何も主張しない』『関心がない』ということ自体が意見有なんだ変えていかなくてはならないんだと思う。でも、『何も主張しない』『関心がない』では言葉としては弱いのだろう。
それが、『万人の共認』(土山さん)という言葉に昇華すれば、強くなり、真っ当な評価軸(統合軸)になる。そうすることが、本源で感じている一番大切なモノを意見有として捉えられるようになっていくに違いない。「○○は万人の共認だ。」としていくこと(言葉にしていくこと)が本当に必要なことなんだと思います。

倉橋利弘 

最近、ある新聞に「子供を駄目にする「人権屋」」という題の投書が載っていました。
これは、長崎の12歳の少年が起した殺傷事件に関連した投書なのですが
”若者がたいした理由も無しに、人を殺したり、傷つけたりする事件が起きるたびにTVなどで評論家が「社会が悪いから」と人ごとのような発言をする。しかし、そんな社会にしたのは「人権屋」である当の評論家達ではないか・・”という内容でした。
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