学者とマスコミが人類を破滅に導く

2013年10月

小泉の自己正当化の為の攻撃的詭弁とパフォーマンスに、支配層の3/4→庶民の1/2が飛び付いている。その世論を背景に、官邸による報道規制の圧力が強まっていることも容易に見て取れる。
これは、かなり危ない。いったい、何故小泉の支持率は高いのか?

庶民の過半は、私権が閉塞し、もはや私権追求には可能性がないと分かっているが、それでも次の収束先が提示されない以上、目先の私権に収束するしかない状態にある。又、収束不全⇒みんな収束の共認圧力もあって、今や根無し草となった私権観念をあからさまに主張することは出来ないが、その分、私権派の欲求不満が蓄積されている。

収束不全⇒みんな収束の共認圧力を受けて、既存(≒私権)意識は目先の秩序に収束し、それに押されて、個人主義(≒旧観念)より国家主義(力の現実主義)の方が優勢となってきた。
その結果、要求するだけの運動や批判するだけのマスコミ報道に対する反感が、広まってきている。
これは、十数年に及ぶ危機感・閉塞感の蓄積を経て、それでも要求し続けている一部の者の運動や主張に対する違和感→怒りが、顕在化し始めたということだろう。

注:力の現実主義とは、私権時代の支配階級を貫く根幹意識であり、戦後保守勢力の一貫したアメリカ追従も、力の現実主義に基づいている。(しかも、戦後保守党はアメリカの力を絶対視させ、その力の幻影をチラつかせることによって国民を脅し、自分たちの支配の安泰を図る道具にしてきた。)

過半の庶民がロクに探索もせずにこのような目先の秩序(国家や力の原理)に収束したことは、由々しい事態である。その背後には、答えを出せない以上、根本問題は捨象して、目先、無難に過ぎれば良しとする表層充足の風潮がある。この目先、無難に過ぎれば良しとする誤魔化しの表層充足の風潮こそ、過半の庶民を目先の秩序に収束させ、小泉の攻撃的詭弁に飛び付かせた土壌である。

岡田淳三郎

> 答えを出せないので、不全捨象の充足報道
(72587)

上記の切り口は、この間のニュース報道に感じる違和感を端的に言い当てていると思いました。

政治・経済、その他の社会問題にしても、本質的な問題に対して、誰も答えを出せないでいる。マスコミは、その事実(=みんなの不全)を捨象・隠蔽するかのごとく、かりそめの充足ネタ、批判ネタを振りまくことに終始している。

しかし、(イラク・北朝鮮問題にしても、経済・年金問題にしても)昨今のニュースのネタが極めて短いサイクルで消費されていくさまを見ると、誤魔化しの限界も既に明らかなように思える。次々とネタを繰り出して誤魔化し(=不全捨象)続けることでしか、マスコミの存在意義を示せないという末期症状に見える。

この現在のありさまは、マスコミの正体を浮き彫りにしつつあるとも言えるのではないか。その正体とは、現実の問題に対して答えを出せないというより、マスコミは、もともと答えを出そうという姿勢すら持ち合わせていない、大衆の不全と正面から向き合う気などない、批判するか誤魔化すしか能がない、つまり「傍観者」であるということだ。

> しかし、潜在的にある探索基調が顕在化し始めたら、明らかに彼ら(マスコミ)は取り残されるだろう。
(72649)

大衆の「収束不全発の探索引力」(71820)によって、傍観者無用の断が下され、マスコミが見捨てられていくのは必然だと思う。

岩井裕介

> 反体制、反身分の共認支配が通用しなくなった今、もはやマスコミは不全捨象の充足報道で誤魔化し続けることでしか生き残ることが出来なくなったということか(暗い話は避けて明るい話でせめて気分だけでも紛らわそうとするしかないのだろう)。(72587

 今日のなんでや劇場のテーマは「学者やマスコミ発の旧観念が役に立たないのは、何で?」だった。

 古代宗教や近代思想など旧観念は、全て飢えと物的貧困の時代に生まれた。誰もが貧しさの中で苦しみ、「困っていた」から、旧観念も受け入れられたし、何らかの慰めを与えることができた。その意味で統合階級もなにがしかの存在意義があった。  

 しかし、みんなが「困っていた」貧困が消滅して以降、旧観念は輝きを失う。貧しさに困る必要のなくなった大衆は、古い思想を不要なものとして捨てた。

続きを読む

今回の訪朝で小泉の支持率が上がったのは意外だった。実際に廻りで話をしても小泉の成果を評価している声は聞かれない。誰もが、小手先のパフォーマンスに過ぎないと感じている。

それにも係らず支持率は上がっている。そうならば、そんな今の支持率に何の意味があるのだろうか?

’70年までは、社会統合にたずさわる可能性がない普通の人にとって、支持率はせめてもの政治家に対する期待や評価の意思表示だった。しかし、現在では「まあ少しは頑張ったんじゃない」「多少はまし」程度の評価に過ぎず、もはや期待しているという積極的な意見ではないのだと思う。

テレビの視聴率も同様。大して見たいわけではないけど、することがないから何となくスイッチを入れているだけ。あれこれ考えても答えがないから、とりあえず頭を使う必要がないテレビを見ているだけ。それでも、スイッチを入れれば視聴率は上がる。

しかし、みんな不全を対象化できない政治家やマスコミは、そんな支持率や視聴率が評価のバロメーターだと思い込むしかないのだろう。そうであれば、小手先の政治改革や充足報道は繰り返され、ますますみんなの実感とのズレは広がっていく。

支持率や視聴率といった数字を追いかける姿に何か空しさ感じる。もはやそんな数字を気にするのは、当の政治家やマスコミだけではないのではないのだろうか。充足基調探索基調へ転換した今、普通の人にとっての評価軸は、答えを出せるかどうかの一点にすでに移っているのだと思う。
 
斎藤幸雄

>霊長類史6千万年の全史を覆す様な場(パラダイム)の大転換

収束不全という概念について、仲間と考える機会があった。
どうやら、それは決定的に新しい不全らしく、それが向う先は、「事実」及びそれが構造化された「新理論」であることがわかり始めてきた。

事実の探求と、その構造化は、簡単な仕事ではない。
収束不全が、決定的に新しい不全であるとしたら、それは、有史以来、何千年もかけてつくられてきた、ありとあらゆる観念・理論が、役に立たないことを意味する。と同時に、現実的には今後も社会を運営していかなければならない以上、最低限、これまでに作られてきた観念・理論と同程度の論理性・完成度を持った、まったく新しい理論が早急に組上げられなければならないことも意味する。気の遠くなるような、膨大な仕事量である。フリーターや失業者は勿論、できる範囲で、高齢者にも、障害者にも協力してもらわなければならなくなるだろう。

一方で、そのような未曾有の仕事を貫く課題は、きわめて明快で、「皆で事実を構造化する」だけである。

ここには、「事実共認による社会統合」というシンプルな理念に導かれ、大量の生産活動、大量の役割が生みだされる、豊かな社会イメージがある。

これまではどうだったろうか?

「個人の権利」が最高理念とされた社会。それがゆえに、必然的に権利と権利のぶつかり合いを生む、矛盾に満ちた複雑怪奇な社会構造。それを調停すべく生み出される、大量の調整業務。法曹、政治家、公務員、学者の多くがそのような仕事を専門にし、それ以外の人々にしても、多かれ少なかれそのような側面に、日常の活力の大半を注ぎ込まなければならない。信じられないことに、そこにはほとんど何の生産性も無いのに、である。

社会とは、複雑であり、難解であり、従ってそこへの参加は、相応の資質と、何より苦難に満ちた長時間の勉強の結果として許されるものだったが、とんだ思い違いである。社会はもっとシンプルでよい。むしろ、そのような社会に一直線につながる道を見抜く術をこそ、勉強しなければならない。

三宅秀和

このページのトップヘ