学者とマスコミが人類を破滅に導く

2013年10月

> 旧システムからの夢や自由を求めて脱出を試みたにもかかわらず、旧システムに頼っている現状は何か変ではないだろうか?70164

旧観念なんてもはや無効である。それは少なくとも80年代までは生きていたように思う。消費に埋没していたのもむしろ、それまでの「マジメな話」が全て実現しない嘘であったことを実感として知っていたからに他ならない。直接的な政治を問題にするほどナイーブな若者はごく少数。比較的良質な層は中世史や江戸学さらには縄文学とマルクス・ヘーゲル的な歴史観の欠落を埋めていく為の(支配階級が文字にしなかった)歴史の解明や、サル学・大脳生理学・生命学への関心を高めていた。「今は既成思想の解体期間であり、新しい統合理論へ向けた助走期間なのだ」と当時僕は思っていた。
しかし90年に入って若者の仲間収束がいじめという形で顕在化すると同時に、一部ながら原子力問題が若者の間で問題になったり、エイズ問題へのチャリティ等福祉・人権・平和といった旧観念を支持する動きが出てきた。最近であれば戦争反対デモに出かける学生が増えたりと、素朴な行動主義、旧観念収束の復活は年々強まっている。(イラクの人質になった若者は18歳!)旧観念(特に福祉や平等といった本源風欺瞞観念)復活の背景には学者の責任だけでなく、若者の側にもなにか変化があったように思われる。

>課題捨象⇒充足収束は、全般的な思考捨象・観念捨象を促す。他方、社会不全⇒社会収束は、社会探究と構造観念への収束を促す。しかし、答えは見つからない。そこで、充足基調の底流が、安定・調和を旨として危機感・閉塞感にフタをすべく、出来合いの「自由・個人・人権」etcの標語への表層収束を促し、統合階級による観念支配を後押しする。19273全てのネックは「答えを出せない」という一点にある

旧観念は実現基盤を考える構造認識なしでも成り立つ即自観念(頭の中に内在する本源価値を言葉化しただけの観念)である。だから実感が闘争を欠如させた本源収束と充足基調であり、かつ現実の人間関係が自我を温存した表層的仲間収束である限りにおいては、実は充足基調と本源風欺瞞観念はあまり対立が生じない、むしろ表層的関係を維持し続けるためには都合がいい。おそらくそうやって、若者は旧観念をむしろ受け入れてきたのだと思う。
山澤貴志

>「国の借金が700兆もできたのは何で?」は、新理論の有用性を示す、推奨お題(69851冨田さん)
>①貧困から脱し「欲しい物は特にない」状態の日本では、紙幣量を増やしても、インフレは起こらない。
>②インフレが起こらないとすれば、元々、お金の本質的な機能は、生産・消費活動の活性剤だから、活動を活性化させるために、紙幣量を増やすことに問題はない。国家がどの活動に支援金を注ぎ込むかによって、生産・消費活動の方向、あるいは、社会の活力は決まる。

現在、決定的に重要な認識転換は、②であげられているお金の本質と活動・活力の方向であると思う。
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先日のなんでや劇場での勉強の成果を活かしたいと思い、なんでや露店で、「国の借金が700兆円もできたのは、何で?」を「本日のおすすめお題」として掲げてみた。

結果、反応は上々で、特に若者が真剣に聞いてくれた。これまで、若者は、政治・経済系のお題にあまり関心が無いのではないかと思っていたのだが、どうも違うようだ。

ある男子大学生がいうには、
政治家・官僚・学者・マスコミ、社会の大人たちがこぞって、「景気回復」にやっきになっている、「経済成長」に固執している、株価の上昇下降に一喜一憂している・・・一体何で???何のために???
という、根本的な違和感がある。
これは彼等世代に共通した、現代社会に対する疑義のようだ。

現在の政治・経済理論、統合階級は、それに頬かむりをして答えない。

> むしろ、マスコミが人々の不安を煽るように、現代の活力が衰弱した状況を「不景気」と称して無責任に語っていることが、実生活上問題のない若者たちに、訳の分からぬ不安を生じさせているのではないだろうかとも思った。(70167)

しかし、そうした彼等に、「国力=活力」という概念(70052)、旧い枠組みに拠っていては活力は衰弱するばかりであること、今求められているのは社会の活力をいかに生み出していくかという問題であること、そして、「みんなの活力」に焦点をあてて経済を斬ってみれば、新しい可能性が見えてくることetcを語りかけていくと、政治・経済の中身にも俄然興味を示してくる。

> 一番面白くなかった政治・経済が最高に面白い社会統合課題に変わっていく(70153)

> 経済系のお題こそ、認識(発想)の転換により可能性が開けてくる、まさに認識の効用を伝え広げていける、絶好のお題なのかもしれないという気がしてきた。(70167)

私も、新たな可能性・活力源を模索している若者たちにこそ、社会統合・新しい社会システムに直結するこのお題を聞いてほしいと強く思った。

岩井裕介

> マスコミの連中は、「言論・表現の自由」や「国民の知る権利」を声高に主張して、その存在を必死にアピールしているように見える。学者も同様だ。なんだかもっともらしく聞こえるが、その実態は、誰が頼んだ訳でもない「マスコミ自身の表現の自由」であり「マスコミ自身が知る権利」にすぎない。社会のことなど二の次だ。69238
 
まさにそうだと思います。
特に、先々週の週刊文春出版差し止めをめぐって雑誌・テレビ・新聞でやかましく議論されているを見て、違和感を強く感じた。

違和感の出所の第一は、問題となった記事が(田中真紀子の長女の私生活がどうこうという)極めてくだらないゴシップであるにも関わらず、憲法や表現の自由云々を持ち出して、さも高尚なことでもあるかのように騒ぎ立てていること。マスコミ自身にとっては重大かもしれないが、それ以外の人たちにとっては、全くもってどうでもよいことだ。

第二に、マスコミ側の主張が、表現の自由に対する国家権力の介入だ、戦前戦中の検閲の復活だ、といった具合に、自らは被害者だといわんばかりの被害者面をしていること。単に時代錯誤であるのみならず、自らが発信者階級という特権的地位にあることに頬かむりした悪質な欺瞞性を感じる。

第三に、マスコミで行われている議論が「言論・出版の自由vs個人のプライバシー」という枠組みであること。いわば、架空観念である「権利」を楯に、権利vs権利を論じているようなもので、そもそもどちらにも根拠がないのだから矛盾するのはあたりまえで、どうどうめぐりの不毛さしか感じない。

第四に、こうした議論に、大学教授・作家・ジャーナリスト・政治家etcの知識人がこぞって参加していること。こういうくだらない議論を延々と繰り返すことでメシを食っているのかと思うと、暗澹とした気分を通り越して怒りを禁じえない。

岩井裕介

>社会を正確に認識できない観念は、混乱を招き、邪魔になるだけのものでしょう(69224

マスコミの問題は、旧観念の問題と併せて捉えなければならないと思う。

マスコミは、社会共認を左右するのに十分なシステム・設備・人的資源等々を独占的に有している。そういう意味で、大きな力(=権力)を持っているのは事実だし、故にその使い方、振舞い方が、とりわけ厳しく評価されなければならない。

また、そのようなマスコミシステムを成立せしめている原因構造を考えたとき、時代の変化が必然的に引き起こすところの、認識機能の“迷い”、及びそれを加速させる旧観念の存在が指摘できるように思う。

人の認識機能の作用機序は、単純化すると、「圧力把握→共認形成=観念形成」といった流れで進む。また、共認形成の段階で充足感が伴う点が、その特質でもある。

翻って、現状のマスコミ支配を認識機能の側面から見た際、どうも、その作用機序が逆転している感がある。
すなわち、「共認形成=観念形成→圧力捏造」といった様子であり、この逆転のサイクルを成立させるものとして、圧力把握なき共認充足を可能にし、それを加速する旧観念の麻薬性と、サイクルそのものを実質的に拡大させるマスコミの力(システム・設備・人的資源)があるように感じる。

圧力状況そのものが不鮮明な時代に入り、人の認識機能が機能不全を余儀なくされる背景の中で、両者が人及び社会の統合システムの隙に“つけいって”おり、それが閉塞感を生む原因ともなっている。

三宅秀和

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