学者とマスコミが人類を破滅に導く

2014年01月

財務省(旧大蔵省)のサイトに、「財政法第46条に基づく国民への財政報告」という頁がある。この頁に、特別会計の全体(歳入/歳出総額、相互の出入を除いた純計)を記した報告が載っているのは、なんと平成16年度財政報告からである。
16年度の予算規模は、一般会計82兆円、特別会計の歳出総額387兆円(一般会計との出し入れ、特別会計相互の出し入れを除いた純計歳出で207兆円)である。
つまり、一般会計の他に、その2.5倍の国家事業(事業会計)が行われているが、その全容を、今まで明らかにしてこなかったという事である。

特別会計は、一般会計と違い、財務省の予算査定が及ばない各省庁の聖域となっている。そして、当の財務省は、「財政融資資金特別会計」(16年度62兆円規模)、「国債整理基金特別会計」(同183兆円規模)、「外国為替資金特別会計」(同資金規模1.8兆円)をもっている。前2つは、財源のやりくりをしている巨大な特別会計である。

>例えば特別会計のうち最大のものは、<国債整理基金>の192兆円(歳出)で、特会間の繰り入れの多くはここに集まっている。この192兆円は、国債の償還に当てられている。償還と言ってもその殆どを借り替えているので、歳入の方には約100兆円の「公債金」が計上されている。他の特別会計からは、<交付税及び譲与税配付金>からの約50兆円など計86兆円がこの<国債整理基金>に繰り入れられているのだが、<交付税~>の歳入の部には、今度は「借入金」50兆円が計上されている。

>バブル崩壊直後の90年代には、このような会計間の遣り繰りの中で「隠れ借金」づくりが行なわれたらしい。つまり、その時点で比較的余裕のある会計から金を繰り入れたり、本来行なうべき一般会計からの繰り入れを停止する事で、見かけ上新規の借金額を減らし、その実、将来使われるべきストックを食いつぶしているという方法だ。

>特別会計というものは、今や国の借金発生源の本尊であり、さらには、そこでの金の動きを見えにくくさせる暗幕=借金のマネーロンダリング装置の役目を果たしてしまっているのではないだろうか。

正に、マネーロンダリング・粉飾会計そのものだと思います。

そして、粉飾決算が、余りにも巨大であるため、誰も、「粉飾決算だ!」とは、言えなくなってしまっている。経済学者や財政学者という「専門家」になればなるほど、「粉飾決算」と財務官僚(その過去の規律崩壊)を批判できないのである。

では、このような粉飾決算(財政規律の崩壊)が、何年位続いて来たのか。

国家の財政規律は、1975年の一般会計赤字国債(特例国債)の発行によって、基本的に崩れた。
赤字国債(特例国債)の発行は、第1次オイルショック後の不況、歳入不足を補い、社会保障費等の財源確保の為に、三木内閣により組まれた。この三木内閣では、副総理として、大蔵省に絶大な影響力があった福田赳夫(小泉氏の師匠)が、この特例国債にゴーのサインを出している。

この特例国債の削減の機会が、数回あった。

最初は、第二次オイルショックを乗り越えた昭和57年段階である。事実、「ゼロシーリング、マイナスシーリング」が設定され、58年9月には、財政非常事態宣言が出されている。

次が、昭和62年から始まった「バブル景気」による歳入の増加時代である。
平成2年には「特例国債依存体質からの脱却」が財政政策としてうたわれている。

最後が、平成9年の「財政構造改革の推進に関する特別措置法」であるが、その翌年には、同法を停止している。
参照:「戦後の国債管理政策の推移」(財務省)

結局、統合階級のトップである大蔵省(主計局・理財局)の官僚が、30年間に及ぶ粉飾決算・マネーロンダリングを、巨大な「資金やりくり特別会計」で行ってきた。そのやり口をみていた他の省庁も、各々の特別会計でもって、やりたい放題して来たのである。

国の財政は、一見、まわっている様に説明され、その眼鏡で見ることに慣れてしまっているが、本当は、30年間に渡って、暴走しており、その勢いが増しているのではないかと思う。

村田貞雄

 福祉国家と言えばスウェーデン!!!と言えば聞こえがいいようだが、その実は国民の過半数がストレスやら抑圧やらの心理的障害を抱えて悩んでいるということだ。福祉を支える国民の税負担率は75%とも言われ、日本の倍に達する。そんな中で優秀な自国の若者には見切られ非凡な才能が海外に流出する。
 一方で、そこまでして充実させたはずの「福祉」は子どもを持つ家庭にゆとりをもたらせたかというと、婚外子割合が5割を越えると聞いた。

 かつてイギリスが「ゆりかごから墓場まで」なんていって福祉に力を入れたけれど、お陰で世界一の衰退国家に成り下がってしまった当時の歴史を振り返ると、果たして福祉が国民生活の向上にひと役かっているかというと、はっきりノーだと言える。

>スウェーデンの補助金政策が未だ答えになっていないことは明らかだと思う。

 とは、全くその通りで、こんな当たり前の事実こそをしっかりと伝えるべきである。

 ちなみに、リンクされているグラフを見ると、1990年の出生率2.13人という回復は一体、どんな政策が奏功したのか。それまでの段階的な回復振りから(例えば日本の丙午のような)突発的なことではないと思う。
 また他国に目を移すと同じような推移が見て取れるのは同じく北欧のノルウェー、他デンマークにアメリカ。日本や韓国・イタリア・ドイツがジリ貧状態の時にやや回復を見せている。
 そのあたりをもう少し追求してみる必要もありそうです。

 しかしいずれにしても豊かになった(先進国の)国民の出生率を上げるには、経済的な支援や子育て環境、父親の育児参加といった表層的な対応に終始しても全く無駄だというのはもう少し長いスパンで数字を追えば一目瞭然である。

 手を打つなら、「教育」によって、それこそ国家百年の大系として、男女の在り方から捉えなおす必要がある。なぜなら個人主義に染まった頭でいくら考えても損得に基づいた「要求の福祉」にしかならないからだ。

 今の福祉は、強者が弱者に手を差し伸べる、といった本来のものとはかけ離れて、弱者の仮面をかぶった強者が、権利を主張して蝕んでいると言った様相ではないか。

 スウェーデンに学ぶなら反面教師としての側面しかありえないと思う。

松下直城

「好景気」ってつまり、「金回りがいい」ことですよね?
経済活動が活発で、モノやお金がたくさん回っていること。

…それで、何かいいことあるんですか?

お金が儲かって、モノがたくさん買えて、しかもモノのグレードとかどんどんステップアップ出来て。それでもお金が余って仕方ないから、普通の人がマンション転がしてたり株やってたりしたのがバブルの頃。

あの頃に戻って、何か解決するんでしょうか?

「国の借金800兆をどうする?」も。
「環境破壊」も。「経済格差」も。
「学級崩壊」も。「少子化」も。
「民族紛争」も。「テロの連鎖」も。
「生きるって何?」も。「うつが増えたのなんで?」も。

すべては「貧困の克服」→「私権統合の崩壊」→「収束不全」「活力衰弱」のゆえであって、必要なのは「私権統合」に替わる、新たな統合軸。

「お金があれば、景気がよくなれば、この不全感は解決する」なんてはずがない。「新認識」を知らない普通の人々にも、これがもはや当たり前の感覚なのではないでしょうか?

よって、「景気が良くならないのはなんで?」という「なんで?」は、「景気がよくなることはいいことだ」「これを達成するのが社会正義」と思っている統合階級の人々が発する疑問でしかありえず、もしくは普通の人が口にするときは、「何かいいことないか?」という程度のあいさつ代わりではないかと思います。

本当は、景気をよくしたいなんて本気で思っていない。
この収束不全の突破口が何なのか、それが知りたいのではないでしょうか。
そして、その突破口は、人々の活力源はすでに私権から共認へ移行したのだという状況認識を得ることからしか、見えてこないのではないかと思います。

藤岡聖子

>●少子化の原因は経済的理由であると言う報道。
・1970年以前の貧困の時代の方が子供は多かった。
 先進国より発展途上国の方が出生率は多い。
→経済的理由で少子化になっているのでは無い。<99200丸一さん>

 少し考えれば、このような事実は当たり前だと思います。なのに、マスコミや学者などから子供一人に対して育てるのに1500万~3000万円必要になる ということを言われると、はっきりいって子供をもつことに不安を抱えてしまうのは当然のように思うし少子化に拍車を掛けている行為だと思います。

 でも、この子供一人1500万~3000万かかるという根拠の前提には、核家族で個々に育てたらということがあると思います。これは、貧困の時代にはな かったことであり、発展途上国にもこんな考えはない。子供はみんなで育てるという共同体の意識があって、それで成り立ってきた。

 未来のことを考えることってすごく大切なことだけれど、

>「先端」は幹の根元と幹の先端の両方の意味があると思う。歴史の先端に、過去と現在があるように。

>構造認識は、社会統合の、原因と方法の二つの先端を持っている。したがって、収束不全の解決には、その両端の収束が必要なのだろう。<99220佐藤さん>

 未来の先端ばかりを見ているから、マスコミや学者が上記のような発言して社会を閉塞させている。しかし、原因となる過去の先端とあわせて捕らえると何が 原因でどうすれば良いのか可能性を提示できると思います。突破口は、共同体の再生、共同保育だと思います。これは、貧困の時代、発展途上国での状況を考え れば、不可能なことは全くない。人々の認識転換ができれば簡単なことだと思う。その為には、共同体を知っている高齢者の役割はすごく重要になり、社会的に 重要な役割が生まれることになると思います。(そしたら年金などの問題も解決する可能性がみえてくる)

 一方だけではダメ、両方を見ていかないといけないということは、構造認識に少しでも触れたらわかること。突破口を考える時も構造的に捉えることが何より大事なことだと思います。

蝦夷穴 

個人主義の反対を辞書で調べると全体主義となる。両者の違いは個人の自由があるかないかいうことになるようだ。

個人主義:国家・社会の権威に対して個人の意義と価値を重視し、その権利と自由を尊重することを主張する立場や理論。
全体主義: 個人の権利や利益、社会集団の自律性や自由な活動を認めず、すべてのものを国家の統制下に置こうとする主義。独裁や専制政治などと同義に用いられる。(Yahoo大辞林から引用)

近代思想に立脚した市場社会では、個人の私権拡大が善であり、これを推進するには、個人主義以外は悪であるとして国民を洗脳する必要がある。全体主義とはそのような背景で定義付けられた観念と言うこともできる。

るいネットに立脚すれば、「共認主義」など実態に合った言葉を見つけることができるが、新たな言葉を持たない人にとっては、個人主義者でなければ「全体主義者」ということになってしまう。

一方を正当化し他方を否定するために、単純化された2つの価値によって判断を迫る方法は、ある意味暴力的である。しかし、この風潮は小泉内閣になってから強まっていると感じる。その象徴が、郵政選挙であった。「改革か否か」とは最初から中身などなかったのである。

かつて、政治評論家が、曖昧な政治家に白か黒かの判断を迫ると言うのは「すがすがしさ」を感じた時代もあったかもしれない。しかし、今TVで、例えば田原 総一郎が政治家に無理に白黒の回答を迫るのは、非常に違和感がある。「それは違うだろう!」と言いたくなる。おそらく多くの人が同様の感覚を抱いているだ ろう。

答えがないにも関わらず、物事を単純化し善悪の2つの価値に還元しようと言うやり方は何も生み出さない。
「分かりやすさ」とは「旧観念を駆使して、物事を単純化」することではなく、新概念によって「実感にあったスッキリした答え」を示すことである。

中身のない二者択一によって、国民の多くがまんまと騙されてしまったのではないだろうか?危険な時代である。

星埜洋

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