学者とマスコミが人類を破滅に導く

2014年01月

今回、死への恐怖感はどうして生まれるのかについて議論しました。

この件について考える上でまず整理しておきたいのが、死に直面した時の恐怖感と死について考えた時の恐怖感は違うということです。

とりもなおさず死に直面した時に感じる恐怖感は、危機逃避本能から来るものであることは言うまでもありません。ここで沸き起こる感情は本能を下敷きにしており、個体差はほぼないと言っていいと思います。

一方死を観念で捕らえようとすると、そこに様々な解釈が存在してきてしまいます。具体的に言えば、「尊厳死」について反対派と容認派の間で繰り広げられている生命倫理についての議論がその代表だと思います。

ネットで両者の主張を通読しましたがおおよそこんな感じでした。反対派の主張は概ね「個人の生殺与奪権は当然当人が握っているのだから最終的な判断は当人 に依拠するべきであり他人は関与してはいけない」という回答がなされていました。また逆に容認派の主張としては「自然死とは違って当人が苦しんでいるにも 関わらず最後まで生に繋ぎとめておくのは個人の尊厳を侵害している」というものでした。

この手の議論は有名な学識経験者や終末医療の現場で再三再四されているにも関わらず未だはっきりとした結論が出ておらず、どの話もお茶を濁して終わりといったお粗末なものでした。

両者の議論は平行線のように見えて、実は根本的には同じ思想を背景に持っています。それは個人主義です。だからこそ、それに基づいた生殺与奪権や個人の尊 厳といったような固定観念をいくらぶつけ合って議論したところで答えは出る訳がなく、むしろ議論が蛸壺化していくことによって余計に「人それぞれ」的な風 潮が横行するようになってしまうのです。

固定観念に捕われずに事実を徹底的に直視すれば、人の生き死について議論する上で「活力=役割・評価充足」を取り扱う必要性が浮き彫りになってきます。上記の旧観念的議論から完全に抜け落ちてしまっているこの視点を持つことによって初めて、「生きる意味がわからない」=役割欠乏や「死ぬのが恐い」=孤独感という新たな観点が得られます。

極端な話、活力で充ち足りた生を歩んで役割を全うした人間にとって、死という概念は拒否し恐怖する対象ではなく、肯定し受容するものに転換していけると思 います。仲間との充足感に包まれたまま死んでゆく人間からは、生に執着することなく「嗚呼、やるだけのことはやった。もう想い残すことはない。」という言 葉が自然と発せられるのではないでしょうか。

正に、生命の出口=死を塞いでいるのは頭の中に巣食う固定観念なんだと思います。

走馬灯

紀元前6~5世紀は、本格的な市場経済の創始期と言える。
 すなわち鉄器が地中海世界~東アジアに亘って普及し(いわば紀元前の「産業革命」)、生産の飛躍的増大とそれに伴う余剰生産物の流通の拡大が生存維持のための必須事項となった時期である。

 紀元18~19世紀の「産業革命」もその延長線上にある。

 当然、社会体制はそれに対応したものにならざるを得ず、例えば中国においては、秦・漢という統一帝国(紀元前3世紀)による広域経済圏の成立がある。現 実の統一は武力によってなされたのであるが、実はそれに先立つ「春秋・戦国」時代に、変動する社会状況に対し新しい秩序を求める「認識闘争」が極めて激し く行われていた。

 いわゆる「諸子百家ー百家争鳴」である。諸侯・諸王は自身の支配域で「殖産興業」「富国強兵」(これらはこの時期にできた言葉である。「尊王攘夷」も春 秋期の語)に努めたが、文字・貨幣・度量衡・車軌はまちまちである。紙さえまだない。そうした中で、諸子(諸思想家)はどのようにして自らの認識を伝え、 闘わせたのか。じかに語り、諸国を遍歴、遊説したのである。直接為政者に説き、あるいは「教育」として伝授したのである。
 1分間の放送で、全人類に伝わる現代ではない。交通も通信も人力・畜力・道具の狭小な範囲をでない。しかし、儒家や法家等の説く「新しい社会秩序論」-認識は広範囲に伝わり、その観念が社会統合の軸となった。

 同時期、インドでは釈迦、ギリシャではソクラテスらが出た。これは偶然ではない。ユーラシア大陸のほぼ全域に渡る「市場形成」始動という同状況に対す る、人間としての同じ反応である。すなわち「どうすればよいのだ。どう考えればよいのだ。答えがほしい」への対応である。釈迦も各地を巡り、ソクラテスは 街路に出、論争した。その範囲は実際には狭小なものであり、かれらは広域宣布の手段など持ち合わせていなかった。
 しかし、かれらの「認識」は時宜に応じたものとして広まり、今に伝わっている。それは彼らの「認識」に基づいて形成された状況そのものが市場の広域統合という、その時点での「要求」に応じたものであり、その状況が「宣布」の働きを持ったゆえであろう。

 すなわち「観念」は物理的手段を凌駕するものである。逆にいえばいかに広域宣布の物理的手段を持とうと、時宜に対応できぬ「観念ー認識」は残れないのである。

 一隅からであれ、マスコミ諸機関のごとき大規模な物理的手段によらずとも、正しい、「答え」を出せる認識が必ず広まり、その「共認」が社会を、統合機構を築きうることは歴史の事実からも明らかなのである。

中村朋子

9月の選挙でも、また、日常の生活の場においても、分かりやすさに価値を求める傾向が強い。
にもかかわらず、単純な事実になかなか気がつかない、見えてこない、というのは何故か?
(参考 97958「「わかりやすさ」=「誤魔化し」」
    98019「分かり易い言葉=誤魔化しの言葉」)
例えば、
●郵政民営化の議論でも
・金余りなの郵貯や簡保の資金をを市場に投入してもだぶつくだけ。
→郵政民営化したって市場は活性化しない。
・郵政は現在既に独立採算。
→郵政民営化したって国の借金は減らない。
 ⇒小泉の言ってる事は誤魔化しである!!
●若い人達と話すと、大学で勉強し、社会の役に立ちたい!と言う。
・大学の数、学生数(大学卒業者数)、そして、学者の数は一貫して増えている。なのに社会は全面閉塞状態に陥っている。
→大学の勉強、学者は社会の役に立たない。
●少子化の原因は経済的理由であると言う報道。
・1970年以前の貧困の時代の方が子供は多かった。
 先進国より発展途上国の方が出生率は多い。
→経済的理由で少子化になっているのでは無い。
●タバコが癌の主要な原因であるかのような報道。
・喫煙者数、タバコの消費量は一環して減少しているのに癌患者は増えている。
→少なくともタバコが癌の主要因では無い。

事実を元にした認識(=観念)がないと、誤魔化しの罠にはまり、出口が全く見えない、出口に近づけない。

>たとえ潜在思念が感取したとしても不鮮明であり、危機・課題を明確化し、解決する為には構造観念が不可欠である。(18572

構造観念が絶対不可欠である!という状況認識を伝える事が急務なんだと思う。

丸一浩

先日のなんで屋劇場で、「焦りの適応主体と、目先収束」というテーマを扱った際に、現在の小泉翼賛体制に見る意識潮流として、収束不全から焦りの適応主体が、真っ先に目先や勝ち馬へと収束し、無理やりなゴマカシのパフォーマンスを受け入れる土壌を形成している、という構造は納得でした。
その中でも重要な視点として、答えが出せないが故の焦りは、庶民よりも統合階級=マスコミ・政治家の方が大きい、という視点は今後の情勢を計る上でとても重要な視点だと思います。

既に小泉自民(2/3議席)と、マスコミ権力の2軸が同化し、ファシズム化に入っている。しかも、その背後にはアメリカの圧力が明らかに働いている。
この構図を眺めると、実は巨大権力を元に圧力を強めているアメリカこそが、一番の焦りの主体なのではないか?と思えてきます。

市場原理の拡大限界は、先進諸国共通でとっくの昔に見えている(どの先進国も国債発行無しではGDP成長維持が不可能)事であり、私権に変わる活力源(お金の使い道)を模索している状況のはず。その中でも、相変わらずアメリカだけは貧富の格差を意図的に生み出し、あるいは略奪闘争(戦争)の大義名分を掲げ、ひたすら序列原理(力の原理)での統合を推し進めようとしているかのように見える。

事実を見れば、未だイラク戦争は収拾が付かず、民主化(自由化)への流れは一向に見えてこない。
国内情勢は、3つ子の赤字が膨らむばかりでなく、最近ではハリケーン被害を受けて、その対応の酷さにブッシュ政権の支持率はかなり危機的状況に陥っている。
リンク

自然災害は偶然の出来事ではあるが、その災害が思わぬアメリカの脆さを露呈した結果になっている事からも、アメリカはとにかく焦りに焦って、ただひたすら 自国の理念、自由という御旗を他国に押し付けていくことでしか活路を見出せない状況に追い込まれているのではないだろうか。(リンク

アメリカの力といえば、軍事力・経済力(消費力)・情報力の3つが挙げられるが、この中で今後も有益に使えそうなカードは、情報力の一点に絞られていくように思われる。
軍事力での圧力には、大量破壊兵器の保有など、破壊すべきお題目が必要であり、消費力ではアメリカを簡単に上回る程の需要は、世界各地にまだゴロゴロと存在している。
とすれば、既に独占的なアメリカの情報力に対向しうるネットワーク形成と、その情報網を構造的に統合できる認識力こそが、アメリカの暴走に歯止めを掛ける最も有益な対抗手段となるのではないだろうか。

とにかく、日本は既にファシズム化に入った。しかし、民意(得票数)こそが、今後の日本を舵取りする最も有益な羅針盤だとすれば、まだ闘える地盤は残っている。このチャンス、逃さずものにして行きたい。

川井孝浩

>民主主義は、私権統 合国家の核心部を、(全く実質を伴っていない、形式だけではあるが、)身分制から合議制に変えた。その意義は大きい。合議とは共認であり、国家は社会共認 に従う存在となったのである。だが、合議制になったにも拘わらず、なぜ国家→社会は根底から変わらないのか?その答えは、既に明らかだろう。確かに、国家 は社会共認に従っている。しかしその社会共認は、全て支配共認なのである。(実現論3_1_01)

民主主義とは一体何なのか?国家統合が根本からガタガタになり、ファシズムへと突入しようとしている今、その本質を問うことが求められていると思う。

民主主義>人民が権力を所有し行使するという政治原理。権力が社会全体の構成員に合法的に与えられている政治形態。ギリシャ都市国家に発し、近代市民革命により一般化した。現代では、人間の自由や平等を尊重する立場をも示す。(大辞林)

民主主義とは、本来、万人が当事者として政治に参加すること=「共認原理の政治的表現」である。しかし現実的には、”人民が権力を有する””人間の自由や 平等を尊重する”などの表現に代表されるように身分制度へのアンチ≒「市場主義の政治的表現」として登場している。それは、絶対王政・身分制の転覆という 歴史的事実からも明らか。民主主義と言う観念そのものが、私権・市場原理によって生み出された旧観念であることは疑う余地がない。
また、市場主義に対立する社会主義が登場して以降の民主主義は、現代のアメリカに代表されるように「個人主義の政治的表現」としての意味合いを強めてきた。つまり、「民主主義」とは、「共認原理とは正反対」の市場主義→個人主義の政治的表現であるというのが現実だろう。
この「共認原理とは正反対」の現実を、主権在民と言う響きの良い言葉(=共認原理的言葉)で覆い隠してきた既存の民主主義の詐欺性は極めて重大である。
確かに、主権在民も、思想・表現・結社の自由なども憲法で保障されている。しかし、万人が主権を行使する場は4年に一度の選挙しかない。誤魔化しも甚だしい。思想・表現の自由はマスコミに共認形成の場を支配され、思考停止に陥って機能していない。
「共認原理の政治的表現」としての民主主義は、幻想に過ぎないと言うのが現実なのだ。

’70年貧困の消滅によって、社会は序列・私権原理から共認原理へと転換した。民主主義が本来の共認原理の観念であったならば、人々は文字通り「社会の当事者」として、政治に参加してきたはずである。しかし、現実には思考停止し、完全に傍観者へと成り果てた。
市場主義→個人主義の政治的表現と言う「共認原理とは正反対」の民主主義、マスコミに共認形成の場を支配された現実において当事者意識など生起するはずがなかったのだ。

現代、政治の場は、ファシズムと言って過言でない小泉政権に握られ、共認形成の場は旧観念・欺瞞観念を操るマスコミに支配されている。さらに、最近の投稿で明らかにされてきたように、両者は結託し、完全に社会統合の場を一色共認に染め上げてしまった。
4年に一度の選挙と言う誤魔化しだけでなく、今回の選挙に見られたように衆院の解散も、選挙の勝敗操作も、もはやマスコミと政治家(小泉)の思いのままで ある。共認原理とは程遠い、独裁支配体制が生み出され、本来の民主主義(=共認原理の政治)は完全に機能停止しつつある。ある意味で、今回の選挙で「共認 原理とは正反対」の旧観念としての民主主義体制が完全に確立されたとも言える。

一方、人々には'02年収束不全の顕在化から進んで「焦りの適応主体」(98507)が生じている。

>最基底の本能次元からの【当事者意識の生起】ということであり、「傍観者から当事者への転換」⇒(みんな)共認社会実現に向けてのプラス要因と捉えることができます。(同98507

傍観者意識を打ち破って本能次元から芽生え始めた当事者意識。
その意識は、既存の民主主義の上での政治関心へと向かっている。しかし、現実の政治・共認形成と言う社会統合の場面は、「共認原理とは正反対」の独裁・支 配体制。このまま、社会統合が共認原理へと転換しないまま支配され続ければ、人々は「焦り」から、どんどん目先へと収束し、社会は更なる閉塞(→破綻)へ と追い込まれていく。

'70年以降、社会が共認原理に移行した以上、「共認原理の政治的表現」としての民主主義が後退することはありえない。当事者欠乏が芽生えた人々の政治意 識は、本質的には本来の民主主義=「共認原理の政治」としての民主主義を渇望している。それを妨げ、目先に走らせているのは、政治家(小泉)と、マスコミ の共認支配

>人々は、マスコミと政治権力による共認支配を、明確な「敵」として潜在思念で感じとっているのかもしれない。言うまでもなく、明確な「敵」の存在は闘争圧力(活力)を加圧する。時代は、共認闘争圧力を必要としているのではないだろうか。(97509

敵は明白である。
なんでやによる、政治・社会系お題の展開(98572)、マスコミへの攻撃(97449)そして、るいネットでの数々の事実追求投稿を持って、共認闘争の幕は切って落とされた。
近代に実現できなかった、「共認原理」としての本来の民主主義を我々素人の手で、今、この時代に築いていくのだ!

西谷文宏

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