学者とマスコミが人類を破滅に導く

2014年10月

池田内閣の参謀として所得倍増計画を設計した経済学者の下村治は、石油ショック後「安価な資源が無制限に安定供給されるという『成長の基盤』はもはやなくなった」と喝破し、1987年には『日本は悪くない 悪いのはアメリカだ』という著書を発表している。

現在の経済危機は、下村が当時に指摘した問題と処方箋を、特権階級が闇に葬り去り、米国の言いなりになって問題を数段拡大してしまった結果だといえる。 


以下は下村の著作からの抜粋です。(生方史郎の「古典派からのメッセージ」リンクから)

「中国の経済成長などで、資源エネルギーはますます使えなくなる。近代経済学の前提としていた無尽蔵の資源なる状況はいよいよ成り立たず、そういう制約のもとで先進工業国の経済成長率は低くなるのは当然」

「世界同時不況を覚悟すべきであり、日米両国は縮小均衡から再出発すべきである」

「日本加害者論から、アメリカが悪いが仕方なく協力必要論まで、何と的を得ない論述ばかりだ。貯蓄超過が輸出超過の『原因』である、という証明不能の見解が流布するのが日本の経済論壇である。」

「日本人の慎重な消費態度は健全で、国の宝とも言うべき性向である。」

「農業は確かにおかしい。ビニールハウスでカネをかけて作った野菜は売れて、露地栽培の畑でできた曲がったキュウリは売れない。本当は栄養的にも経済的にも曲がったキュウリの方がいいのに。悪く保護されてきて生産者が余計なことで儲けようとし、消費者もそれに馴らされておかしな嗜好になってきた。」
 


やまと 

「自主管理への招待」には、重要な認識がたくさん詰まっているが、その中でもひときわ心に迫ってくるのは「主体(自己)=対象」という認識だと思う。

> 私たちは、こう考える。もし私たちの求めるものが、本当に現実性を持ったものであるなら、それを実現しうる対象的な構造がすでに現存のこの社会の内に実在しているはずだと。
> 人は、対象とイコールに結ばれた主体としてのみ存在するのであって、決して自分だけで生きているのではなく、まして観念だけで生きているのではない。従って、欲望や願望が実現されるためには、それらとイコールに結ばれるそれらの対象が、同時に存在していなければならない。
> 打ち消し難い課題を自らの内に孕んだ主体は、その実現対象をこの社会構造の中に見出し得るはずである。
211502

私権時代を通じて、主体(自分自身)と対象(現実社会)は分断され続けてきた。
また、近現代においては、主体の「意識」と「存在」は断絶されたままだった(近代思想)。
現代でも「日々の労働」と「生きる」ことが統合されない、意識の混濁は至る所に見られるだろう。

「自主管理への招待」の文には、確かな時代認識とともに、そうした否定や断絶の歴史を超えて、「主体(自己)=対象」の地平を獲得(再生)してゆく意志、その充足可能性の予感、そしてそこへ全身を懸けてゆく意志が充満している。
こうした、充足可能性へ向けた実現思考こそ、我々が学び同化すべきところだと思う。




岩井裕介

>但し、人類は1万数千年前、飢餓から解き放たれた採取部族の時代に、一度、これに近い状態を経験している。(213622

採取時代の社会状況については、実現論1_8_01実現論1_8_04に詳しい。
>外圧が低下すると集団統合力が低下し、規範収束力も低下してゆく。同時に、外圧の低下につれて解脱収束(中心は性充足の欠乏)が強まってゆく。更に、集団規模が拡大したこともあいまって、原モグラ以来1億年に亙って踏襲してきた首雄集中婚を維持することが困難になっていった。こうして約1万年前、人類の雌雄(婚姻)関係は劇的に変化してゆくことになったが、豊かな山野や海辺に進出して木の実などの採集や漁労に転じた採集生産の部族と、従来通り獲物の豊かな森林で狩猟を続けた狩猟生産の部族では、全く異なる婚姻規範を形成する。
>東アジアの黄色人(モンゴロイド)をはじめとして、世界人口の過半を占めていた採集・漁労部族は、仲間の解脱収束→性欠乏の上昇に対して、皆が心を開いた期待・応望の充足を更に高める方向を目指し、部族内を血縁分割した単位集団(氏族)ごとの男(兄たち)と女(妹たち)が分け隔てなく交わり合う、総偶婚規範を形成した(但し、氏族を統合している部族レベルでは首雄集中婚が踏襲されている事例が多いので、正確には上部集中婚・下部総偶婚と呼ぶべきだろう)。
>何れにしても、期待・応望充足を最大の活力源とする採集部族は、総偶婚によって期待・応望(=共認)充足を破壊する性闘争を完璧に解消して終うと共に、総偶婚によって一段と期待・応望充足を強めたことによって、その充足を妨げる自我回路もほぼ完全に封印していった。


【外圧低下】⇒【充足思考・安定志向】の一方で、【集団統合力低下+規範収束力低下+解脱収束】と言う問題へと陥った採取部族だが、総偶婚と言う新しい婚姻システムを形成することで、性闘争自我回路の完全封鎖を成し遂げ、集団の成員全ての充足(期待・応合充足)と集団統合力の再生+集団活力の上昇を実現した。

採取部族に見られる、この実現志向こそ、213622で述べられている「充足状況では、無意識に近い弱い実現志向しか生起しないが、その実現可能性は大きい」と言うことの歴史的傍証であると言えるだろう。
採取部族が実現可能性を開くことが出来たのは、「(期待・応望の)充足を更に高める方向」へと収束したことによる。

現代社会も採取部族に同じく【生存圧力の消滅=外圧低下】⇒【充足思考・安定志向】の意識潮流下にある一方で、政治・経済・環境・家庭・教育etc・・・多くの社会課題・集団課題に直面しているが、これらの社会問題はマスコミによる共認支配旧観念の垂れ流しによって出口を塞がれている。
更に、マスコミが流布する「目先の」充足・安定基調によって、人々は(問題の突破の先に得られる)「本質的な」充足・安定追求へと向かわず、目先的充足・安定へと流れている。この目先収束の意識が社会問題の解決を更に困難にしている。

しかし、底流に流れる「大きい実現可能性を秘めた充足思考・安定思考」は確かなものであり、その実現可能性の扉を開くことが出来れば、(最先端のドル・米債暴落→市場崩壊の問題も含めて)あらゆる社会問題を突破していくことは可能である。
そう言う意味で、同様の状況下の中で充足可能性へと収束し、社会・集団の統合と皆の充足を実現した採取部族に学ぶべき内容は非常に多いと感じる。

採取部族に学んで我々が成すべきは(社会の「改革や変革」ではなく)「皆の(本質的な)充足」を実現する為の事実追求と可能性の提示であろう。
「潮流3:’70年豊かさの実現と充足志向」213622を読み、人々の意識潮流の底流に流れる「大きい実現可能性を秘めた充足・安定志向」を対象化した充足可能性を提示し、広めることこそ、新しい時代を実現する突破口であると認識した。





西谷文宏

バブルは必ず崩壊する。案の定、’90年、日本のバブルは崩壊した(その後、’08年、米欧をはじめ世界バブルも崩壊する)。
そして、’95年、バブル崩壊の5年後、相次ぐ金融機関の破綻を目の当たりにして、私権の崩壊が意識(予感)され始める。
半顕在意識に生起したこの私権崩壊の認識(予感)は、私権追求の欠乏を一気に衰弱させ、急速に私権圧力を衰弱させていった。

私権欠乏→私権圧力が衰弱したことによって、私権欠乏発の不満や怒りや要求も衰弱して無意味化してゆく。つまり、「否定」意識が空中分解してゆく。こうして、’95年以降、「否定と要求」の社会党は一気に凋落していった。
そして、「否定」が空中分解したことによって、’70年以来の充足志向→実現志向の潮流が次第にはっきりと顕在化してくる。
それだけではない。私権が衰弱したことによって、「否定」意識と同じく私権欠乏発の「自由(自由追求の欠乏)」も衰弱して無意味化し、空中分解してゆく。
それに伴って、明治以来、市場拡大の原動力となってきた性(自由な性=自我私権に貫かれた性)の活力も一気に衰弱し、アッという間に女の性的商品価値が暴落すると同時に、男のセックスレスが蔓延してゆく。

95年以降、衰弱し続けてきた私権欠乏は、その後’03年、株式が二番底に向かうのを見て追求する活力も消え失せ、遂に私権欠乏そのものが空中分解してゆく。かくして、人々はもはや私権の追求に収束することができなくなり、永い間社会を統合してきた私権収束→私権統合という統合軸が崩壊してゆく。これは、1800年に亙って私権時代を貫いてきた私権原理の崩壊であった。
こうして、人々はどこにも収束できずに収束不全に陥ってゆく。
但し、肉体的な潜在意識は’70年以来、一貫して充足志向から共認収束し続けており、私権の衰弱につれて共認収束はどんどん強くなってきている。従って、収束不全と言っても、それは「否定」も「自由」も空中分解し、私権意識さえ無意味化したことによる顕在意識の収束不全に過ぎない。

(なお、上記の性の衰弱は、人類にとって極めて由々しき事態である。しかし、まやかしの近代思想に染められた知識人たちは、この問題からも目を背らし、ダンマリを決め込んでいる。今や、学者や評論家やマスコミ人たち(=プロと称する者たち)は、何の役にも立たないただの無駄飯食いに成り果てたと見るべきだろう。)

他方、バブル崩壊に伴う経済危機は、人々の間に危機感発の安定欠乏を生起させ、目先の安定志向を強めさせる(注:この危機発の安定志向は、’70年以来の充足発の安定志向とは別物である)。そして、この危機発の安定志向は、「自由」が空中分解したことも相まって、目先の秩序収束の潮流を生み出してゆく。タバコ、セクハラ、食品叩きと続く魔女狩り=マナーファシズムは、この秩序収束の潮流に乗った法曹官僚とマスコミの仕掛けである。
しかも、この目先収束は、秩序収束の段階に留まらず、更に目先の制度収束へと突き進んでゆく。
豊かさの実現以来の充足志向→実現志向の大潮流は、’95年、私権意識の衰弱が顕在化したことによって、一段と強くなっていったが、同時に、危機発の目先の秩序収束の潮流が生起したことによって、実現志向と秩序収束の合流点に目先の制度収束の潮流を生み出していった。既存の制度の枠組みの中での、授業や試験や資格への収束が、それである。

中でも、子供や若者の試験制度への収束は、小学生の時から勉強漬けで「勉強しか出来ない」無能エリートを大量生産しただけではなく、学歴が生涯の身分をほぼ規定する学歴身分社会を作り出し、社会を少数の特権階級と多数の下層階級に分解してゆく。




岡田淳三郎

この国債発行→バブル経済、そしてその後のバブル崩壊から経済危機に至る流れの全ては、市場拡大を絶対命題とする特権階級の利権維持およびその特権の維持と固く結びついた彼らのイデオロギーが生み出したものである。
おそらく彼らは、市場拡大は自分たちの特権を維持するためではなく、国際戦争に打ち勝つために不可欠だったのだと主張するだろう。
しかし、それは本当か?
本当は、’70年、豊かさが実現された時、「市場は拡大を停止するしかなくなった」のだという現実を直視し、素直に『ゼロ成長』戦略を打ち出していれば、現在見るような経済危機に陥ることもなく、また国際競争力を失うこともなかったのである。
問題は、国債投入なしには市場を維持できないという事実、つまり自由市場など絵空事であって、現実には、国家市場(国家によって支えられた市場)しか存在しないのだという事実から目を背らし、「自由競争・自由市場」という幻想を捨てようとしなかった点にある。要するに彼らは、事実に反する(彼らには都合のいい)イデオロギーに固執し続けてきたのである。

この世には、医療だけではなく、農業や介護や新資源・エネルギー開発、あるいは「なんでや露店」のような社会活動etc、市場には乗り難い(ペイしない)が、社会的に絶対必要な仕事(or活動)がいくらでもある。市場に資金を注入するなら、すでに飽和状態に達した物的生産ではなく、あるいは福祉と称して単なる消費者にバラ撒くのではなく、市場ではペイしないこれらの類的生産を刺激or支援する方向に資金を注入することもできた筈である。例えば、農業や介護etc各供給者の売上に応じて、その50~150%の支援金を支給するという形にすれば、競争活力を失うこともない。
これは、次のように云い換えることもできる。生産性が上昇すれば、そのぶん価格が低下する。従って、余剰の需要が生じる。これは、物的生産の側から見れば需要の縮小=不足であるが、人々はその余剰需要で類的供給を享受できるようになるということである。それに、物的需要を超えた供給力の過剰分までは、国家紙幣を発行して類的供給を支援しても、インフレにはならない。

このように、物的需要(の喚起)から類的供給(の喚起)へと舵を切っておれば、日本経済はバブルにも経済危機にも陥らず、次代をリードする国家市場を実現し、世界にそのモデルを提示し得た筈である。
しかし、特権階級は「市場拡大を絶対」とするイデオロギーに固執し、900兆もの資金を市場に注入し続けてきた。これは、彼らが己の特権とそれを支えるイデオロギーにしがみ付いてきた結果であると云うしかない。

彼らには、この失われた40年を総括して、せめて「自由競争・自由市場など幻想」であり、「現実には国家に支えられた市場しか存在しない」のだという事実くらいは、素直に認めてもらいたいものである。それさえ学習できないのなら、この失われた40年は全く無駄になる。




岡田淳三郎

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