学者とマスコミはグルで頭脳支配

2014年10月

生存圧力が衰弱すると、私益追求の欠乏も力強さを失って徐々に衰弱してゆく。そして’70年、三種の神器が行き渡り、ほぼ豊かさが実現されると、物的充足が飽和限界に達したことによって需要が頭打ちとなり、市場は拡大を停止するしか無くなった。

需要の頭打ち(→市場縮小)に危機感を感じた財界、政界および学者、官僚、マスコミの者たち(以下、特権階級と呼ぶ)は、不足する需要を補うために、今日までに900兆もの資金を市場に流し込んできた。そして残されたのが、もはや返済不可能な国の借金である。(注:但し、金貸し=中央銀行から紙幣発行権を剥奪し、国家紙幣を発行する形に切り換えれば、忽ち国の借金はゼロになる。)

’70年以降の大本営が発表するGDPから、毎年市場に注入された国の借金(国債・地方債etcの借入金)によって作られた人工需要を引くと明らかなように、毎年のGDPはマイナス成長となる。つまり、自由市場は、豊かさが実現された’70年以降、縮小過程に入ったのである。現在の市場は、国家による資金注入という輸血装置によって生き延びている人工市場なのであって、決して自然な需要と供給に委ねられた自由市場なのではない。従って、当然、大きな歪みが発生してくる。

需要が飽和している所に、巨額なマネーを流し込んでも、市場は余分なマネーでジャブジャブになるだけである。しかし、いくらマネーでジャブジャブになっても、常に供給過剰・需要不足なのでインフレにはならない(=余分なマネーが吸収されない)。そこで、必然的に余分なマネーは土地や株式etc供給に限界のある投機商品に流れ込み、投機商品のハイパーインフレ=バブルを生み出す。
こうして’85年以降、日本経済は世界の先頭を切って、バブルによってGDPを水膨れさせる偽りの経済=バブル経済に突入していった(続いて’90年以降、米欧はもちろん、新興の中露も巻き込んで世界中がバブル経済に突入してゆく)。
つまり、’85年以降、市場はバクチ経済の段階に突入したのである。
 


岡田淳三郎

’70年、工業生産の発展によって、ほぼ貧困が消滅し、豊かさが実現された。この豊かさの実現=生存圧力の弛緩は、生物が経験したことのない全く新たな事態である。但し、人類は1万数千年前、飢餓から解き放たれた採取部族の時代に、一度、これに近い状態を経験している。

一般に危機状況では、危機を突破しようとする意識的な実現志向が強く生起するが、その実現可能性は小さい。他方、充足状況では、無意識に近い弱い実現志向しか生起しないが、その実現可能性は大きい。
豊かさが実現され、生存圧力が弛緩すると、闘争の実現可能性よりも充足の実現可能性の方が大きいので、人々がそちらに向う結果、闘争よりも充足の方が価値が高くなる。つまり、闘争よりも充足の方が、挑戦よりも安定の方が大切になる。従って、闘争(仕事)志向や挑戦(創造)志向よりも、充足志向や安定志向の方が強くなる。

また、生存圧力が衰弱し、物的充足が飽和状態に達した状況での新たな(=より大きな)充足可能性は、物的価値ではなく類的価値(人と人との間に生じる欠乏)の充足の中にしかない。そして、類的価値の充足とは、共認充足に他ならない。又、充足志向は安定志向を生み出すが、この安定も相手との共認や規範の共認etc人々の共認によって実現する。従って、生存圧力を脱した人々が志向する充足・安定志向は、必然的に共認収束の大潮流を形成してゆく。
それだけではない。生存圧力が弛緩したことによって私権圧力→私権欠乏も衰弱過程に入ってゆく。つまり、’70年、豊かさの実現(=貧困の消滅)をもって、人々の意識は私権収束から共認収束へと大転換を遂げたのである。従って、資本権力も衰退過程に入り、代わってマスコミの共認権力が第一権力に躍り出る。

この闘争から充足への基底的な価値転換を受けて、’60年安保闘争、’69年全共闘運動と続いた否定発の反体制運動は、’70年以降一気に衰退してゆく。そして、彼らもまた、安定したサラリーマン生活の中へと埋没していった。こうして、’50年代以来の怒れる若者たちは少数派に転落し、わずかにその名残を暴走族やヤンキーとして留めるだけとなる。
これは、豊かさの実現=生存圧力の弛緩に起因する、男原理主導から女原理主導への転換であるとも云える。(その後の性的商品価値の暴騰とそれによる性権力の暴走も、その一時的な先端現象である。)

しかし、それは行動の大転換となって顕在化した肉体的な潜在思念の大転換であり、現実には市場は利益追求のまま、企業は序列制度のままなので、顕在意識は私権収束→私権統合のままである。むしろ、圧力の衰弱によって、’70年代、’80年代は、いったん私権意識が肥大した面(ex自由な性)もある。
加えて、顕在意識は相変わらず「否定と要求」を正当化する近代思想に支配されたままである。従って、肉体的には「否定」は空中分解したにも拘わらず、外圧=私権圧力が衰弱したことによってむしろ抑圧を解かれた不満や要求や主張が肥大し、マスコミ主導で「人権」「同権」etcの架空観念が、いったんは蔓延してゆく。
同様に、私権追求の欠乏が衰弱してゆく以上、「自由」を追求する欠乏も無意味化し、空中分解してゆくが、顕在意識は相変わらず「自由」という観念に支配されたままで、むしろ外圧が衰弱したことによって「自由」という架空観念がいったんは肥大化し蔓延してゆくことになる。(例えば、この頃「自己実現」などという紛い物も跋扈した。)

しかし、その間も、最深部の充足志向は上昇し続け、それに伴って充足発の実現志向も上昇してゆく。そして、それは子供や若者の仲間収束として顕現する。(例えば、私権より何より「仲間第一or仲間絶対」だからこそ、昔からあった「いじめ」が逃げ場のない深刻な問題として浮上したのである。)
 
岡田淳三郎

かつて米国政府のブレーンであったマイケル・ハドソン博士の警告

リンク

「何世紀にもわたり世界は戦争によって形成されてきた。それにもかかわらず、戦争や暴力がいかに歴史を作り、世界の国境を書き換えてきたかという現実を子供たちに見せないように導くことは賢明な方法ではない。」

「このことからもわかるように、歴史の流れを決めてきたのは公正な取引きにおける合理的な計算などではない。経済的な権力は、武力や威嚇、詐欺、公然と行われた窃盗によって手中に収められてきたのである。」

「しかし、経済学者は、正当な価格は公正な市場均衡点で落ち着くと説明し、……世界が架空のしかも「おとぎ話」のようなすばらしい世界であるかのように、公正な市場がいかに機能するかという研究を続けている。」

「一方、世界が実際にどう機能しているかの研究はなされていない。」

「世界がどう機能しているかを知らずして、日本を含む正直な国家が、自分達の国を操作し、威嚇し、騙そうとする世界規模の略奪者から自国を守ることはできないだろう。したがって、軍事的征服者や弁護士、煽動政治家、腐敗した政治家や官僚、財界の詐欺師が、いかに歴史を作り上げてきたかを学ぶことから始める方が得策である。」

「現実を形成しているのは、武力や他の圧力、または窃盗や詐欺行為なのである。さらに重要なことは、国家の支配によって権力が確立されるということである。国家支配のためには、不都合な政治ライバルが暗殺されたり、誘拐されたりすることもあり、それに協力した仲間には報酬が支払われる。」

「公費を使い労せずして利益を得ることこそ、最も熟練した経済の勝者が行っていることの本質である。土地や独占権、その他の資産を実際の価値よりも安い価格で購入すること、しかも自分の存在を可能な限り隠してそれを行うことは、裕福になるための最も確実な方法である。」

「今日、学生たちが受ける経済教育は、世界が実際にどのように機能しているかを示す学術的な描写ではなく、特別利益団体を擁護するための粉飾的理論にすぎない。」

「したがって日本が行うべきことは、米国の大学に送る学生の数を減らし、将来の日本の政治家や官僚に、世界的ゲームという認識への妨げとなる「おとぎ話」を学ばせないことである。経済モデルの構築より、世界に対する穿った見方を含み史実を理解することが必要なのである。」

「(アメリカが日本や他の国々に対して)惜しげもなく無料で提供される助言は、結局、自らの利益に資するためのものである。この教訓を学ばない限り、日本は自国の運命を自分達で決められるようにはならないであろう。」





まる

るいネットトップページでも取り上げられているように、国家公安委員長・元衆議院議員の白川勝彦氏が渋谷で不当な職務質問を受けた件が「株式日記と経済展望」に紹介されている。

白川勝彦氏を“狙って”職務質問したのではないようだが、そのことがかえって制御を失った国家権力の暴走状態を浮き彫りにする。

白川勝彦氏の件はおそらく氷山の一角、すでにこのような暴走は至る所で起きているのではないか?


■以下引用「株式日記と経済展望」リンク______________

(私のコメント)
白川勝彦氏は橋本内閣時代の国家公安委員長を務めた元衆議院議員ですが、渋谷の街を歩いていたら4人の警察官に囲まれて職務質問されたそうです。白川氏は普段着で歩いていたから警察官は白川氏が元衆議院議員で警察官を管轄する大臣でもあったのですが知らなかったらしい。テレビなどでも論客として出ていたから知っている人が多いでしょう。

渋谷という場所柄、大麻などの薬物を取り締るつもりで警察官は白川氏を取り囲んで職務質問したのでしょう。風邪気味で少しふらふらしていたのかもしれません。しかし弁護士であり元国家公安委員長だった人なのですから、警察官のやりすぎた職務質問に対して渋谷警察署の署長に対して抗議する為に、警官4人と共に警察署まで行ったそうです。こんな事は白川氏しか出来ないでしょう。

最近の自民党政権は国策捜査を連発して、いわば警察国家化しているのではないでしょうか。自民党を批判する学者や著名人を尾行して、微罪で現行犯逮捕する。植草一秀氏や高橋洋一氏や佐藤優氏などが起訴されて、おかしな事件が続出している。政治資金をめぐる政治家への捜査も恣意的な捜査が目立ちますが、警察や検察は議員達のブラックリストをこしらえて監視しているようだ。

現在の政治資金規正法は誰も守れないような法令であり、国会議員たちは守れないような無理な法律を作っては自分たちを縛ってしまっている。だから政治資金で国会議員を徹底的に調べれば、叩けば埃の出ない人はいないでしょう。だから資金の透明性を確保すればいいのではないかと思うのですが、それだと議員自身が困るようだ。

児童ポルノ禁止法にしても誰も守れないような法律であり、個人のパソコンや携帯電話を調べれば若いグラビアアイドルの水着写真などが出てくるだろう。そのようになれば警察官が職務質問で携帯電話を見せろといわれて、17歳の少女の水着写真があれば現行犯で逮捕されかねない。自民党が改正しようとしている目的はインターネットの取り締りだ。それで言論活動を封じ込めようということなのだろう。

白川氏のブログにもあるように警察官が職務質問をするときは規定があるはずなのですが、現場の警察官は勝手に拡大解釈して職務質問をしているようだ。白川氏は元国家公安委員長で弁護士だから専門家であり、その人がおかしいと感ずるのだから改札間のやりすぎは問題がある。職務質問の規定は次の通りであり、白川氏を職務質問した理由がよく分からない。


1.異常な挙動その他周囲の事情から合理的に判断して、何らかの犯罪を犯し、または犯そうとしていると疑うに足りる相当な理由のある者
 
2.異常な挙動その他周囲の事情から合理的に判断して、既に行なわれた犯罪について、または犯罪が行われようとしていることについて知っていると認められる者

私自身も大学で法律を学んだ法学士なのですが、法律の条文はどのように書いても不十分な面があり、どのように解釈するかは裁判などで判例として積み上げていかないと裁ききれない。だから白川氏も警察官4人を告訴して職務質問にやりすぎがあった事をはっきりすべきだっただろう。しかし素人では警察官に行き過ぎた職務質問かけられても泣き寝入りするしかない。

最近では交通違反の取り締りも厳しくなる一方であり、2,3分の駐車違反でも切符が切られるようになった。最近では自転車までもが携帯などしていると罰金5万円の切符が切られるそうです。車などならともかく自転車までも取り締る世の中になったということです。よほど警察官は閑なのでしょうか。

交通違反なども、主な目的は事故を防ぐ為にあると思うのですが、警察官達にとっては交通法規を守らせる事に意識が集中して、ネズミ捕りなど点数稼ぎでしかない。盛り場などでは監視カメラがあちこちに付くようになっていますが、犯罪の取り締り以外にも使おうと思えば使える。タスポカードも個人情報が警察に提供されていたと言う事ですが、クレジットカードの使用なども一発で分かる。

だから沖縄で捕まった犯人もクレジットカードで足がついたのですが、警察国家化すると個人の行動は逐一捕捉される様になる。犯罪捜査に使われるのはいいのですが、特定の人物の行動監視に使われれば、植草氏や高橋氏などの国策捜査にも活用されたのかもしれない。携帯電話などの盗聴も当たり前になっているかもしれない。
____________________________引用以上





火中の栗

仕事で中小企業の工場経営者の方とお話をすることが多い。多くの方が「人材が宝」という認識を持ち、従業員にいかに活力をもって働いてもらうか、を最大課題とされている。同時に、そういう方々は、従業員とその家族の生活を守ることを自らの最大使命として課されている。今や「自分の会社」という所有観念にこだわるひとはごく少ない。実際、「自宅や個人名義の財産を銀行融資の担保にしているひとが多い中小企業の社長にとっては、会社も家も(区別が)ない」とある方に伺った。

ところで、そこで働いているひとたちはどうかというと、ひとつの共通点がある。みなおしなべて礼儀正しいということだ。階段ではちあわせたら、必ず先に立ち止まってアタマをさげて道を譲ってくれる、初対面でも敷地内で出会ったら明るく挨拶をしてくれる、折り目正しく制服を着用されている。豪華さや華美さはない、むしろ古びた安普請の建物ながら、敷地にはチリひとつ落ちていない。

「行き届いているな」と思わず感心させられる。つつましやかながら、明るい活気があり、礼儀正しく、空気は清澄。日本人のいいところが凝縮されているように思う。

中小企業には労働組合がない=劣悪環境、昇給ベアなし、とマイナスに見られがちだが、実体はそうではない。小さな空間では自ずと情報の共有が図られる。それは、社長と社員の課題の共有を促し、みんなが社の置かれた状況を共認して、等しく外圧を受け止め、その中で自分の役割をまっとうしようとする強力な動機(=内圧)となる。その意味において、かれらは経営参画者であり、自主管理の実現態だ。

「労働の解放」といわれるが、それは労働組合をつくり、自らが属する集団を相手取って声高に要求をつきつけることではない。そんなことではちっとも解放されないことは、多くのひとは直感的に知っている。

では、立ち向かうべき相手はどこか?

大企業から中小企業に対して行われる一方的な搾取、それを作り出した社会システム≒市場原理。「時間を売る」立場に甘んずることを良しとする個人主義という観念。そして、国民を支配する快感に溺れて暴走する官僚・公務員という名の特権階級と国家権力。

われわれが切り込むべき相手はそこにある。



阿部佳容子

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