学者とマスコミが人類を破滅に導く

2014年11月

個人主義者は、責任捨象や言い逃れのヘリクツを重ねた結果、「空理空論に過ぎない」ことと、「自我人間である」ことを、自ら露呈してしまっている!!

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     ┃ 近代思想に導かれて、近代社会が発展 ┃
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     ┃  財政破綻、環境破壊、精神破壊 etc  ┃
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 |      個人主義者は、責任捨象や言い逃れ      |
 |「個人主義のせいではない」「本来の個人主義は違う」etc|
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  ┃個人主義が空理空論に ┃ ┃都合の悪い現実は捨象し   ┃
  ┃過ぎないことを       ┃ ┃自己正当化を図ろうとする   ┃
  ┃認めたことになる     ┃ ┃自我人間だと明らかになる  ┃
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     ┃個人主義は人々を欺く仮面に過ぎず、    ┃
     ┃正体は自我の塊である!!         ┃
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いいじゃん☆

資本主義が「お金絶対の世の中」を作りあげ、市場は今やばくち経済。
共同体がなぜ失われたのか?資本主義は消費行動を通してしか「自分らしさ」を表現できないという若者へのイデオロギーを生み出した。

内田樹さんのブログを紹介したい。
リンク
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資本主義は口が裂けても「共同体の再構築」ということは提言できない。
もちろん、消費者たちに最低限の消費活動を担保することと、人口の再生産のために「核家族」くらいまでは許容範囲だが、それ以上のスケールの共同体ができてしまうと(親族であれ、地域共同体であれ、「疑似家族的」集団であれ)、消費行動はたちまち鈍化してしまう。

経済学者がさっぱり言わないので、私が代わりに申し上げるが、そういうことなのである。互助的・互恵的な共同体が機能すると、消費活動は抑制される。考えれば、当たり前のことである。

共同体に帰属していれば、耐久消費財のほとんどは「買わずに済む」からである。
誰かが持ってれば「貸して」で済む。
お金もそうだ。
誰かが持っていれば「貸して」で済む。
銀行もサラ金も要らない。
金融商品もさっぱり売れない。
だって、それは「博打」だからだ。
「みんなの財布」を持ち出して鉄火場で博打をしようと思うんですけど・・・という提案が共同体内部で合意を獲得することはきわめて困難である。「やるなら自分の手銭の100円玉使ってやれよ」という話である。

経済的に互恵的・互助的な共同体を形成すると、資本主義的な消費活動は一気に鈍化する。だから、後期資本主義は久しく全力を尽くして「共同体形成」に反対してきたのである。

~中略~

その「結果」として若い世代の方々は「共生する能力」を深く損なわれたのである。彼らの責任ではない。
教育も、メディアも、思想家たちも、率先して「誰にも決定を委ねない、自分らしい生き方」を推奨してきた結果、「共同体の解体」と「消費主体の原子化」が晴れて実現して、こうなったのである。

日本社会が官民を挙げての努力のこれは「成果」なのである。
「共同体の再生」という大義名分には反対する人はいないだろう。けれども、それが「消費活動の冷え込み」を伴うという見通しについては、「それは困る」と言い出すだろう。

申し訳ないけれど、これはどちらかを選んでもらうしかない。
資本主義者のみなさんにご配慮いただきたいのは、限界を超えて「原子化」した人間はもはや消費活動さえ行わなくなるということである。

その話をしよう。
私たちの社会では、だいぶ前に「消費行動を通じてはじめて『自分らしさ』は基礎づけられる」ということがルール化された。
どんな家に住み、どんな車に乗り、どんな服を着、どんなワインを飲み、どんな音楽を聴き、どんなレストランで飯を食うか・・・といった一連の「商品選択の偏り」のことを「アイデンティティ」と名づけることにしたのである。

ブルトンの言い回しを借りれば、「私が何ものであるか」は「私が何を買ったか」によって定まることになった。
「消費を通じてしかアイデンティティは基礎づけられない」というこのイデオロギーの脅迫の下で、人々は必死になって消費に励んだ。
中には借金をしてまで「自分らしさ」を誇示できる商品を買うものさえいた。
けれども、さすがにみんなも疲れてきた。
そして、「消費に使う金が十分に用意できない」と泣訴する人々が登場した。消費行動がとれない人間はアイデンティティを持てないなら、消費行動を通じて「自分らしさ」を表現できない人間は「私はまだ『私』になっていない」というねじれた自己規定を強要されることになる。
「ひきこもり」とか「ニート」と呼ばれる非活動的な諸君は、おそらく「私はまだ『私』になっていない」というふうに自分自身をとらえているのではないかと思う。

~続く~
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匿名希望

『実現論 第一部前史 ニ.サル時代の同類闘争共認機能』 を学んだ。


樹上に生活の場を求めた原猿達はそこで陸・海・空とは異なる第4の世界を構築し、安住の楽園を手にする。
しかし、その先に原猿達を待ち受けていたものは同類同士の縄張り闘争という過酷な現実だった。

縄張り闘争に敗れ、性本能も満たされない多くの弱雄達は本能の混濁という未明課題に陥っていく。


<以下引用>
不全課題を抱えて依存収束した弱オスたちは、依存し合う中から、「どうする?」⇒「どうにかならないか?」と可能性を相手に求め、互いに相手に期待収束してゆく。こうして、依存収束⇒期待収束し、互いに相手を注視し続ける内に、遂に相手も同じく依存し期待している事を発見し(探り当て)、互いに相手の課題=期待を自己の課題=期待と同一視して理解し合うに至った。自分以外は全て敵で、かつ怯え切っていた原猿弱者にとって、「相手も同じく自分に依存し、期待しているんだ」という事を共認し合えた意味は大きく、双方に深い安心感を与え、互いの不全感をかなり和らげることが出来た。この様に、不全感を揚棄する為に、相手の課題=期待を自己のそれと重ね合わせ同一視することによって充足を得る回路こそ、(未解明だが、おそらくは快感物質βエンドルフィンを情報伝達物質とする)共感回路の原点である。この安心感+が、相手+⇒仲間+共感を形成し、原猿たちは不全感の更なる揚棄を求めて、より強い充足感を与える(=得る)ことのできる親和行為(スキンシップなど)に収束していく。そこでは、相手の期待に応えることが、自己の期待を充足してもらうことと重ね合わされ同一視されている。つまり、相手の期待に応え充足を与えることは相手に期待し充足を得ることと表裏一体である。従って、相手の期待に応えること自体が、自己の充足となる。共感の真髄は、そこにある。共感の生命は、相手(=自分)の期待に応望することによって充足を得ることである。こうして、不全感に苛まれ本能が混濁したサルたちは、その唯一の開かれた可能性=共感充足へと収束することによって、はじめて意識を統合することができた。これが、サル・人類の意識の、第一の統合様式たる共感統合の原基構造である。

<引用終わり>

この行為は『依存』を悪しきものと捕らえる現代的価値観からすれば「負け犬同士で傷を舐め合っているだけの現実逃避」と映りがちだ。

しかし、この『依存』こそが他者への共感の始まりであり、やがては支えあいや助け合いという現代の社会道徳=共認原理へと繋がっていく事を考えれば、現代人の様々な精神的不全の根本原因はこの依存を悪しきものと捕らえる考え=自分の身は自分で守るという個人主義的観念といえるのではないだろうか?

実際、現代人は社会道徳の基盤を見失っている様に感じる。
(何が正しい事なのかその根拠を見出せないから価値相対主義に陥っている)

恒常的不全と言葉で語ることは簡単だが、実際に原猿の弱雄達が感じ続けてきた苦悩は、生まれた時から平和と飽食に満たされていた我々現代人にはにわかに想像し難いものであったのだろう。

そして今も我々の中に存在する支えあい助け合いの精神の原基構造たる共感機能が2000万年にも及ぶ原猿達の長き葛藤から生まれたものであると知った時、彼らに対する感謝と畏敬の念が沸いてくる。

近代思想における支えあいや助け合いの根拠は『人権』とされてきているが、「人間が人間として生まれながらに持っている権利」などと原猿達が聞けば彼らは呆れるだろうか?

実際、人権を根拠に社会道徳を説く現代人を殆ど見た事が無い。
人間のみが特別である等という根拠無き傲慢な屁理屈からは真の社会道徳など生まれるはずもないからだ。






鎌塚裕二郎

相手が発した言葉通りの意味は分かるけれど、発した言葉の文脈上の意味を取り違えるケースが多い。1つの文章には無限の解釈の仕方があるので、その中で「本当に相手の言いたいことは何か」を見極めることは、コミュニケーションを円滑にすすめる上で必須である。

しかし、現代人はこの解読能力を喪失してしまった。その原因は、「高度情報化時代」にあると内田樹氏は以下のように述べている。リンク

※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※
「情報」と「情報化」は違う、ということはこれまでも何度か書いた。「情報」というのは「処理済み」のものであり、「情報化」というのは「生ものを情報単位にパッケージすること」である。魚屋が市場から来た魚を三枚におろす作業が「情報化」である。パッケージされた切り身が「情報」である。

「高度情報化社会」というのは誤解している人が多いと思うが、「情報化」が進んだ社会のことではなく、「情報化」のプロセスが人目に触れなくなる社会のことである。誰がどこでどんな魚を「三枚におろして」いるのか、誰も見ることができない社会のことである。人々は情報を並べたり、入れ替えたり、交換したり、値札をつけたりする作業にのみ専念している。それが高度情報化社会である。

切り身になる前の魚はいろいろな「使い道」がある。ぶつ切りにしてもいいし、開いて干物にしてもいいし、塩に漬けて魚醤にしてもいいし、粕に漬け込んでもいいし、かちかちに日干しにして人の頭を殴ってもいいし、金肥にして畑に撒いてもいい。そういう無数の「解釈可能性」を「なまの魚」は蔵している。「切り身のパッケージ」はそのありよう以外のすべてのありようを捨象した「残り」である。

「情報化」とは、「前-情報的素材」を「情報」に精製する過程で、無限の解釈可能性の中から適切なものを一つだけ選び、あとを捨てるということである。だから、資源が有限の環境においては、与えられた「前-情報的素材」の蔵する無限の「使い道」のうち、「さしあたり私が生き延びる上でもっとも有用な使い道」をただちに見当てる能力が死活的に重要なものとなる。

だが、この能力は「高度情報化社会」では不要である(だって、すべての情報はもう誰かによって「加工済み」なんだから)。不要であるという以上に、もうこのような能力が存在するということ自体を私たちは忘れた。「前-情報的素材」の取り扱いについて、現代人はほとんど「無能」になってしまった。(引用終わり)



奮迅

J-CASTニュース リンク より引用
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財務官僚が日本を動かしている――それは都市伝説なのか。彼らの前には、予算チェックを担う政治家もいれば、「権力を監視する」マスコミや「ご意見番」審議会の存在もある。財務官僚たちは、彼らとどう向き合い、どう「操縦」しているのか。元財務官僚で安倍政権の内閣参事官も務めた、政策工房会長、高橋洋一さん(54)に聞いた。

■マスコミは「紙」食ってるヤギに等しい

――マスコミ関係者と接していた経験から、彼らをどう見ていますか。

【高橋】 審議会に入り手なずけられる「ポチ」もいますね。「マスゴミ」なんて言葉もありますが、「紙」を食ってるヤギのような存在です。彼らは記事を書くために、すぐ役人に「紙」「ブツ」を求めます。概要や要点を書いた資料のことですね。すると彼らはそれをそのまま記事にします。それがないと不安で記事が書けないようです。バックグラウンドを理解しようとしません。出発点になっている法律を読み込む力もないし、そもそも読んでない。「紙」には、役人は自分たちに都合のいいことしか触れません。

 例えば、エコポイントはいい制度だ、という声を聞きます。確かにいい部分を含んでいます。しかし、役人たちがその影でいくつ天下り団体を作ったことか。新制度、法律を作るとそこにくっついている話なのにマスコミは気付かない。役人にしてみれば、ちゃんと法律にも予算書にも最初から書いてますよ、それを国民の代表たる国会議員が通しましたよね、マスコミもなんら問題視してませんでしたよね、それを後になってから天下り団体がけしからんと言われても困るんですよね~といった思いでしょう。

――法律や予算書が読める「怖い記者」はいましたか。

【高橋】 いなかったですね。プロじゃないと読めません。政治家も学者も読めてませんから。シンクタンクに取材する記者もいますが、シンクタンクの担当者が誰から情報を得るかと言えば役人です。役人に聞かないと彼らも理解できない。手前みそですが、私が立ち上げた「政策工房」は、予算や法律が解る人間が法案作りなどの手助けができないか、という思いから生まれました。

■ファーストクラス乗せて学者籠絡

――審議会などの存在も、役人の筋書きを権威付けるために利用されているだけだ、という指摘もあります。

【高橋】 その通りです。まず人選。学者については著書を読めばどういう立場かすぐ分かるので、例えば賛成派9割、反対派1割という具合にまとめます。反対派を増やさざるを得ない状況もありますが、やり方はあります。反対派の人の都合の悪い日に会合を設定する、などはよく使う手です。タイムスケジュールも結論も最初から決まっています。「5月の連休明けに結論を出すから逆算して……」と段取りをつけます。
 
 誰が何を言いそうかは、データベース化しています。私も少し関わっていましたが。色分けが済んでいて、誰を選べばいいか、誰を避けるべきか瞬時に分かります。審議会のメンバーになると、海外出張の予算が付きやすいなどの「特典」もあります。で、その際財務省の役人も「おもてなし」のため付いていきます。私もやったことがありますが、外務省に任せるなんてとんでもない、財務省が入管から完全に自前でアテンドをやります。入管は待たずにすっと通れます。
 
 担当の役人が直接話をつける訳ではないのですが、航空会社への出資・融資関係にちょちょいと声をかければ、簡単にファーストクラスなどのアップグレードチケットが入手できます。当日になって学者に「何故だか知りませんがファーストクラスに変わってました」などと言って勧めれば、大喜び、大感激で乗っていきます。まあ、感激しそうなタイプの学者を選んでる、というのもありますが。これを重ねると役所に好意的になっていきますね。

――スキャンダルをマスコミに流す、ということはあるのですか。

【高橋】私は流したことはありませんが、そういうケースはあります。私が内閣参事官をしていた安倍政権のとき、政府税調の会長だった本間正明教授が(2006年末に)スキャンダルで辞任したことがありました。これは伏線がありまして、当初、財務省から上がってきた会長案は石弘光さんでした。しかし、方針の違いなどから塩崎官房長官が「官邸主導でやる」と財務省案を差し替えました。すると、ほどなくスキャンダルを流された。情報を全部持っていたのは財務省。ああいうタイミングで「愛人」――これは不正確なマスコミ表現でしたが――と官舎問題を一緒にしてスキャンダルとしてやられたと見ざるを得ません。

――国会議員との関係は。

【高橋】徹底的に足を運んで折伏します。土下座する人もいますし、私なんかはあっさりやっていました。勉強している真面目な政治家は意外といるのですが、こちらが「要路」、手順を間違えなければ折伏できます。情報を流す順番とかタイミング、そのノウハウが、財務省には特にしっかり蓄積・伝承されていました。
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(引用おわり)

財務官僚が偽ニッチの罠(223233)に嵌りこんでいる分かり易い事例ではないでしょうか。もっと他にやるべきことがあるだろう?と言いたい。




橋口健一

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