学者とマスコミが人類を破滅に導く

2014年12月

>具体的には、タキトゥスの「ゲルマニア」やウェスターマークの「人類婚姻史」など、数々の参考文献から主に未開部族の婚姻形態を分析しています。(227770

婚姻史を追求する過程において、様々な学術資料・論文などを調査しましたが、227666で投稿されているように、既存の資料や論文は極めて中途半端な分析であったり、現代的”価値観”から分析されたものが多く、追求としても完全に行き詰まっていると感じました。多岐に分類される学術研究テーマの中でも、最も酷い状態であると言っても過言ではないと感じています。
その行き詰まりの原因には、確かに「実証主義」を重んじるが故(227666)と言うこともありますが、それ以上に「家族」と言う極めて狭い視点、近・現代的な価値観からしか婚姻形態のありようを分析していない点にあると思われます。

この点『婚姻論』は、婚姻形態のありようを、(自然・外敵)外圧状況と生産形態、同類圧力と集団統合様式(集団統合力)と言うように、「外圧状況」と「集団統合」の観点から構造化している点が、既存の学術資料・論文と一線を画していると感じます。
例えば、”総偶婚”が「採取生産」という生産基盤による自然外圧の低下の中、集団統合力・集団活力を上昇させる為に形成された(実現論1_8_01)と言う分析や、”交叉婚”が同類闘争圧力の上昇に適応する上で、部族統合力を高める為に登場した(5609)と言う分析などは、「外圧と集団統合」の構造認識無く、到達することは不可能です。(フィールドワークによる実証主義では決して辿り着けない)
構造的視点・構造認識が、仮説思考を可能にし、極めて論理整合性の高い分析を生み出しているのであると感じます。
この構造認識に基づいた、婚姻形態の分析こそ、『「婚姻論」の史的価値』(227666)の本質と言えるのではないでしょうか。

なお『婚姻論』では、集団のおかれた外圧状況を分析する上で、必ず集団の生産形態に着目していますが、この視点が極めて重要であると感じます。
集団の生産形態に着目することで、その集団のおかれた外圧状況が極めて鮮明に捉えられる。この生産形態への着目から捉えた外圧認識こそが、『婚姻論』における構造認識の基盤であり、全ての分析の中枢となっています。

『婚姻論』は、企業体である類グループの理論研究会によって作られましたが、現実の生産課題の中に身を置く生産集団であるからこそ、このような視点からの論理構築が可能になったのであると感じます。
そういう意味では、現実の生産課題から離れ、特権的位置から調査・分析を行っている学識世界では、全く構造化できない、答えが出せていないのも当たり前であると感じます。



西谷文宏

私権時代に求められた能力と共認時代に求められる能力」というテーマで考察を進める中で、私権時代の力の特徴として、成長過程で形成される本能的能力と異なり、私権時代の力は成長過程によって身に付けたものではなく、生前から予め付与されているものである事が指摘された。
すなわち、武力(身分や家来)や資本力(金)等の私権時代の制覇力は、相続によって、そのまま息子に継承されているのである。
末代固定の身分制度の根幹は、相続される力にある。
ところで教科書では「近代は、封建時代の身分支配から解放され、自由になった」と、公然と謳われている。しかし、事実をつぶさに見れば、それは嘘であることがわかる。

すなわち、封建時代といえども100年単位で見れば、常に政権交代は存在し、旧王朝の力によって保証されていた身分などは政権交代が起これば直ちに消滅してしまうこと(つまり事実として末代固定ではないこと)。
そして何よりも、近代以降も身分制度を形成する、力のヒエラルキーの礎である、資産の相続は完全に認められており、この財宝や金は、王朝や政権が変わろうとも、継承され続けること。そして、現にヨーロッパ貴族は数百年に亘ってその資産を継承し、現在でも公然、隠然たる力を持って世界を差配していること。また日本においても2世議員が多数を占める事態が象徴するように、現在も「力」は継承されていること(確かに相続税という制度は存在するが、これをほとんど無効化してしまう「抜け道」はいくらでも存在する。)

つまり、この「力の相続」は近代以降も現に行われており、身分制度から解放されたというのは、ほとんど嘘であることが指摘できるのである。(もしくは近代とは、新参者が認められやすくなった分だけ、多少は緩和されたという、封建時代に比してせいぜい少しマシになったという程度の問題にしか過ぎないことが指摘できる。)
つまり、教科書の記述は、単に近代社会を美化するためのみに学者を動員して記述させた文字通りの「欺瞞観念」に過ぎないのである。



北村浩司

>武力は武装集団の力である。武力さえ集団統合力⇒共認形成力なのである。ここは常識の塗り替えが必要。(リンク

武力時代、その制覇力は武力であり、共認形成力は二の次の力であると考えていた。武力さえもっていれば、誰でも従わせることができる時代のように思っていた。

しかし、よく考えてみたら、個体間の闘争ではなく、武力闘争の時代は、集団間の闘争であり、集団を形成し序列を形成しない限り、何千、何万の兵力を集めることも出来なかっただろうし、武器調達もできなかっただろう。

その手法が、上位層のみを対象とした、利益誘導(アメとムチ)で相手を抱き込む騙し、ハッタリ、誇張、脅しであることは言うまでもないが、集団がありきであることも事実であると思った。

私権時代も、企業という集団における利益追求と個体の私権獲得が重なり合って、共認形成を成立させているが、ここでも集団を前提とした共認形成力が成否を決っしていた。

このことから、人類は何時の時代でも共認形成を命綱として生きてきたことの証明であり、逆に言えば、人類は共認動物であるという裏づけであり、共認形成なしでは、生きて行けないことを意味しているんだと思った。





彗星

『テレビ文化人の終焉。』(文藝評論家・山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記』)リンクより転載します。
----------------------------------------------------------------
「小沢事件」が明らかにしたのは、テレビや新聞を筆頭に、雑誌、週刊誌…をも含むジャーナリズム全体の不甲斐なさというか、全員一致の「検察リーク報道」や「小沢バッシング報道」に見られるようなだったが、中でも、北野武、テリー伊藤、爆笑問題の太田光等のインテリ気取りのテレビ芸人から、立花隆、福田和也、西部邁、小林よしのり…というような、作家、ジャーナリスト、思想家に至るまで、要するにテレビに群がる文化人たちの惨め過ぎる実態が次々と暴露されたことは、メディアの将来やジャーナリズムの将来、あるいは思想や文化の将来を考える上でも、重要な事件だったということが出来る。

最近、テレビ画面に顔を出さなければ何事も始まらないというような風潮が強く、テレビタレントやテレビ芸人はともかくとして、作家や思想家、ジャーナリストに至るまで、猫も杓子も「テレビ、テレビ…」と騒ぎ続けた日々だったが、今回の小沢事件の余波によって、彼らの社会的な信用も影響力も半減し、むしろ「テレビ文化人」だったというレッテルを張られることによって、時代から切り捨てられようとしていると言っていいように思われる。

しかるに、当分はまだ、テレビ画面に登場する文化人こそが文化人だというような風潮は残るだろうが、しかし、そこには批判と軽蔑とが伴っていくことになるだろう。

 ~中略~

たとえば、テレビ文化人の典型であった「田原総一朗」が、2010年の三月で、「サンデープロジェクト」を降板するそうだが、この事実が示すように、「テレビに出なければ文化人ではない」とでも言うように、わが世の春を謳歌し、一世を風靡してきた「テレビ文化人」の時代が、今まさに終わろうとしていると言っていい。

読者や視聴者が、「テレビ文化人の正体」を知ってしまった今、彼等が文化人や思想家、ジャーナリストとして生きていくことは容易ではないだろう。たとえば、立花隆は、小沢事件の渦中において、勇ましく「小沢は終わった」と書き綴った文章をネットに数回にわたって発表していたが、まことに気の毒なことに、いつのまにか全文を削除しているそうである。
------------------------------------------------------------






猛獣王S

 『潮流5:失われた40年』(213681
 この投稿での、大きな気づきは、表題の『国家市場しか存在しない』という箇所です。
>本当は、’70年、豊かさが実現された時、「市場は拡大を停止するしかなくなった」のだという現実を直視し、素直に『ゼロ成長』戦略を打ち出していれば、現在見るような経済危機に陥ることもなく、また国際競争力を失うこともなかったのである。
問題は、国債投入なしには市場を維持できないという事実、つまり自由市場など絵空事であって、現実には、国家市場(国家によって支えられた市場)しか存在しないのだという事実から目を背らし、「自由競争・自由市場」という幻想を捨てようとしなかった点にある。要するに彼らは、事実に反する(彼らには都合のいい)イデオロギーに固執し続けてきたのである。(213681

 そして、このイデオロギーを、われわれ大衆は、学校教育、マスコミを通じて刷り込まされてきたのだと思いました。
 考えてみれば、国家によって支えられた市場=国家市場は当たり前だと思うのですが、この投稿を読むまでは、気づけませんでした。高校時代に自由市場の素晴らしさを教科書から教え込まれた私にとって、国家市場とは、自由市場に敵対する社会主義国家を示しているように捉えていたように思います。改めて考えてみると、アダムスミスの市場経済において各個人が自己の利益を追求すれば、結果として社会全体の利益が達成されるとする考え方なんて、まさに彼らにとって都合のいいイデオロギーそのものです。
 一方で、国家市場を前提と考えれば、次代の社会の在り方、進むべき方向性が見えてきます。

>この世には、医療だけではなく、農業や介護や新資源・エネルギー開発、あるいは「なんでや露店」のような社会活動etc、市場には乗り難い(ペイしない)が、社会的に絶対必要な仕事(or活動)がいくらでもある。市場に資金を注入するなら、すでに飽和状態に達した物的生産ではなく、あるいは福祉と称して単なる消費者にバラ撒くのではなく、市場ではペイしないこれらの類的生産を刺激or支援する方向に資金を注入することもできた筈である。例えば、農業や介護etc各供給者の売上に応じて、その50~150%の支援金を支給するという形にすれば、競争活力を失うこともない。
>彼らには、この失われた40年を総括して、せめて「自由競争・自由市場など幻想」であり、「現実には国家に支えられた市場しか存在しない」のだという事実くらいは、素直に認めてもらいたいものである。それさえ学習できないのなら、この失われた40年は全く無駄になる。 (213681

 まさにそうだと思います。
 もはや、日本経済を(国内の物的需要が無いからといって)一握りの大企業(輸出産業)に委ねた産業構造=グローバル化では可能性有りません。今まさに、『現実には国家に支えられた市場しか存在しない』という認識こそが、次代の可能性基盤を示しているのだと思いました。

(参考;31251
>要するに、市場はどこまでも私権闘争の抜け道でしかなく、従ってそれ自体では決して自立して存在できず、国家に寄生するしかない。だから、市場は、云わば国家というモチに生えたカビである。カビがどんどん繁殖すれば、やがてカビ同士がくっつく。世間では、それをグローバル化などと美化して、そこに何か新しい可能性があるかのように喧伝しているが、それも真っ赤な嘘であって、市場が国家の養分を吸い尽くせば、市場も国家も共倒れになるだけである。国債の暴落をはじめ、その可能性は充分にあると見るべきだろう。





Rivet16

このページのトップヘ