学者とマスコミが人類を破滅に導く

2014年12月

民主主義国家は建前では三権分立の基に国家が統治されていることになっている。憲法上も、三権分立という明確な文言こそないものの、三権各々を担う機関が規定されているのだ。

ところが実際は、唯一国民の国政への意思が反映される選挙によって選ばれた政治家が、法案の審議を行う議会=立法機能は既に形骸化している。実際、政治家は官僚組織の助け無しに法案を作成するのは不可能である。しかも新たな法案は、細部の項目を運用行政機関にほとんど委ねており、議会はせいぜい法案の承認の儀式を行う機能に過ぎないのである。

そもそも現在の民主主義とは、三権分立の名の下、各々機能分化された機関に対して何の圧力も働かず、権力者の自由気ままな行動を容認し、さらなる支配力を維持拡大できる都合の良い場なのである。

そもそもモンテスキューが行政と司法と立法とを分けたことに無理があるのではないか?

以下、現代社会の権力構造(6)立正経営論集(2005年12月)阪口大和リンクより引用させて頂きました。

>現代社会の主権者が国民であり, 三権分立によって民主的に統治されているとする民主主義神話ほど, 彼らのように潜在化し巨大な組織連合の実権を握っている者たちにとってその支配力を隠蔽するのに都合のよい主張はない。彼らがその地位の保全に水面下でどれほど腐心しているか, またその権力が如何にエゴイスティックなものであるかは, 彼らがこのような冗談を通り越した空論としか受け止められないような主権在民神話の維持に躍起となっていることからも逆に推察出来るのである。

>一方で権力が分散化されているために, 国民誰一人, また権力者誰一人, 自分自身の責任と感じている者はいない。日本国内のもっと具体的な問題でいえば, 底なしの公的債務に対して, 歴代の首相の誰一人, 役人の誰一人としてその責任を感じている者はいないようである。(巨大な制度と組織の慣性の中に埋没した現代人の無力感のもとにはあまりにも空しく響く)人間性を賛歌する西洋の個人主義的思想によって啓蒙された現代人は、権力者, 服従者共々かくも等しく, 日日和見主義的で傲慢不遜な人格の持ち主になり果てたのである。





大嶋洋一

欧米中心主義はどのように生まれたのか?

アメリカの社会進化論者 H.モーガン(1818~81)は『古代社会』(1877)において、人類の婚姻史を研究し、人類の歴史が「野蛮→未開→文明」という段階をへたと提唱した。その後、この「古代社会」の社会進化論は、様々な学者により都合良く解釈され、西欧文明が進歩の模範であるという西洋中心思想へと利用され、欧米社会がすべての点で最も質が高く優れているとする欧米中心主義が成立したのではないだろうか。

以下、文明リンクより抜粋引用。

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モーガンは、人類の結婚形態が 
1.同一集団内兄弟姉妹の乱婚から、
2.兄弟・イトコとその妻たち、姉妹・イトコとその夫たちのあいだの群婚(プナルア婚)、
3.時々相手が変わる男女の一対婚、
4.一夫多妻婚、
5.一夫一婦婚
という段階を通って進化したと主張した。

K.マルクス(1818~83)はモーガンの著作を熟読し、これを再解釈した著作を意図したが健康を害して果たさず、彼の死後 F. エンゲルス(1820~95)がモーガンの進化史を唯物史観によって解釈しなおし、『家族・私有財産・国家の起源』(1884)を完成した。
スイスの法制史学者 J.バッハオーヘン(1815~87)は、モルガンの説に反対し、『母権論』(1861)を著して、人類の結婚形態は、乱婚から母系制母権制をへて父系制父権制に進化したと主張した。上記エンゲルスの著書には、この影響が認められる。

(中略)

19世紀の社会進化論者にとっては「文化」と「文明」は同義語であり、人類が「文明人」になる進化の過程が彼らの関心の対象であった。彼らにとって「進化」は「進歩」であり、進歩の最終点には19世紀の欧米社会があった。欧米社会が、すべての点で最も質が高く優れて好ましく、これを物差しとして他の社会事象の価値判断した。

したがって科学は呪術より、一夫一婦婚は一夫多妻婚より、機械産業は農耕・牧畜より、父系制は母系制より、それぞれより高度で高級で道徳的にも質が上であると考えた。

ドイツの社会経済学者 M.ウェーバー(1864~1920)は、人類の歴史を支配形態と行政機構の“合理化”過程と考え、その過程に応じて指導者の型も、人格の魅力で人々をひきつける「カリスマ型」、支配の正当性を相続する「伝統型」、合理化された政治過程をへて地位を獲得し、官僚機構を使って治める「合法型」と変化すると指摘した。

F.テニス(1855~1936)は、社会形態が歴史のなかで、家族・親族・氏族や農村を単位とし、直接的・個人的で自然な人間関係にもとづく“ゲマインシャフト”から、人間関係が契約にもとづき人工的で非個人的な“ゲゼルシャフト”に移行すると説いた。

19世紀の社会進化論は過去の遺物となったが、西欧文明が進歩の模範であるという西洋中心思想は、西洋人のあいだに根強く残っているだけでなく、非西欧社会の知識層にも浸透している。西洋諸国に追いつくことが、明治以来の悲願であった日本も例外ではない。

(以上、引用)
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村上祥典

【政治の季節【稗史(はいし)倭人伝】より『憲法に書いてない「報道の自由」…小沢報道をめぐって(リンク)』と題しての記事を転載します。
-------------------------------------転載
日本国憲法には、「報道の自由」という言葉はない。言葉だけではなく、その概念すらない。

マスコミは大きな誤解をしているようだ。報道の自由とは、嘘を言ってもいい、デタラメを書いてもいいという意味ではない。

多くの人が、憲法によって保証されていると思いこんでいる「報道の自由」はメディアがでっち上げてきた、虚構の上の幻に過ぎないのではないか。
確かに、憲法の条文に書き込まれていない権利も次第に拡張されてきてはいる。
憲法条文の延長線上に環境権という概念が生まれ、「知る権利」が認められたりする。
しかし、条文に直接書いてないということが、その権利の定義の曖昧さ、強制力の弱さを克服できない大きな原因の一つなのではないか。
条文に書いてないということが、「報道の自由」そして「報道」そのものの本質論がこの国で一般化しなかった、そして深化しなかった原因の一つなのではないか?
それがこの国に、まっとうなジャーナリズムが育たなかったことの原因なのではないか?

「報道の自由」の根拠をどこに見つけるか?
「知る権利」から「報道の自由」が派生する、と考えることもできようが、「知る権利」自体が憲法条文にはない言葉である。
そしてそれはあくまでも情報を受け取る側の権利であり、情報の発信者の権利ではない。
この場合情報発信者側に生ずるのは、権利ではなく、国民の知る権利に答える義務であるということになる。
しかしその義務は公的機関に対してはあてはまるが、民間の営利企業であるメディアには押しつけられることではないだろう。
精々、道義的あるいは職業的良心とでもいうところにそれを求めることがてぎるというものであろう。
ただし、国民の「知る権利」が認められるならば、公的権力はそれを妨げるような報道弾圧・妨害をしてはいけない、ということになる。
メディアは、国民の「知る権利」に応えるという一点においてのみ、「報道の自由」を主張することが許される。

●日本国憲法
第21条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。

「報道の自由」の根拠は一般的にこの条文に求められているようだ。以前取り上げたことがあるが、この条文のアメリカ進駐軍による草案は以下のものである。

Article XX. Freedom of assembly, speech and press and all other forms of expression are guaranteed.

草案では assembly,speech and press and all other forms of expression となっているのが、日本国憲法では、「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現」の自由というふうになっている。
憲法の「結社」という言葉がなぜ入れられたのかは専門家にでも尋ねてみなければ分からない。単に、assembly を「集会、結社」と訳したのかもしれないし、何か別の意図があったのかもしれない。speech が言論となっているのには問題はなさそうだ。もう一つが press である。これが「出版」となっている。

press 新聞、新聞界、雑誌、出版物、報道機関、記者

これも単に「出版」という訳語を選んだだけなのか、別の意図があったのかは分からない。「出版」でも「報道」でも同じことだと考えたのかもしれない。

そして日本国憲法施行後ほぼ60年が経った。時代の変化が怪物を生み出した。テレビである。テレビは明らかに出版ではない。

21条に関していえば、「言論」あるいは「その他一切の表現」の自由というところに含められなければならないということになる。
しかし「報道」と「言論・表現」とは一部重なるところはあるにせよ、明らかに大きな乖離がある。報道は情報の伝達であり、それを媒介するものである。
一方、「言論・表現」とは自己表出である。「報道の自由」という概念を全面的に憲法21条に依拠することは難しそうである。とくにテレビにおいてはなおさらである。

ついでながら、「知る権利」についても、一般的にその根拠を21条に求めているようだが、むしろ「参政権」「国民主権」こそがその根拠であると考えるべきであろう。

「報道の自由」は、当然のように憲法で認められた権利ではないのである。
「報道の自由」は、社会的要請があって、そして「知る権利」に応える場合にこそ認められるものである。
「報道の自由・自由な報道」とは、社会が求め、守るべき価値があると認められて初めて正当性を持つことになる。

「報道機関」に対する社会的要請とはなにか?一つは真実を伝えることである。そしてもう一つは権力の監視・抑制である。

この二つを条件として初めて「報道機関」は守られなければならない存在になる。権力は鳩山・小沢の側にある、というような言い方は詭弁に過ぎない。憲法によって与えられた権力をもって小沢が戦いを挑んでいるのは何か?憲法の裏側で構築された巨大な権力機構ではないか。政・官・財の癒着の中で、国民の目には見えない形で根を張り巡らしている得体の知れない力ではないか。そして「報道機関」は明らかに、この「得体の知れない複合権力機構」の一部になっている。このような「報道機関」に「報道の自由」など叫ぶ権利も資格もない。

「報道の自由」と切っても切れない関係にあるのが「取材源の秘匿」である。これは情報提供者のプライバシー、人権保護のためだけに認められる。これ以外に、どんな場合に「情報源の秘匿」が正当化されるのか?

国家機密の保持というのは理由にならない。国家機密を漏らし、それが報道されてしまえば、最早それは国家機密ではなくなっている。機密保持を名目に情報源を秘匿することは矛盾である。

正当化されるのは、メディアがその情報の真実性を確信し、かつ国民の知る権利に応えるだけの価値があり、公共の利益にかない、匿名でなければその情報が得られない場合だけであろう。




彗星

 司法官僚の無責任さは首題の感覚そのものが示しているのではないだろうか。

以下「噛みつき評論」の「算数のできない人が作った裁判員制度」(リンクより引用転載
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 次は論理に関する疑問です。数学以前の問題だと言ってもいいでしょう。

 昨年、裁判員制度による模擬裁判が8箇所の地裁で実施されました。同一の想定事件に対する8つの判決は、無罪判決から懲役14年まで、大きな差がつきました。無罪判決は3件、懲役刑は6年から14年まであり、懲役6年の2件以外はすべてバラバラの結果です。(朝日新聞07/12/02)

 もし無罪判決が正しければ懲役14年は誤判ということにならないのでしょうか。一方が正しいなら他方は誤りという関係です。この大差が出たことに対する最高裁の見解は「当然、想定していた」であり、最高裁は判決のバラつき を予想して、この裁判員制度を推進してきたようです。

 被告人にとって、いや裁判にとってもっとも大切なことは公平性だと思います。つまり同じような犯罪には同じような刑が科せられることが重要です。判決にこのような大差がでても「当然」とする最高裁の感覚は凡人の常識では理解できません。

 裁判を受ける身からすれば、そのときの裁判員次第で、判決が無罪から懲役14年までブレては、くじや占いで刑を決めるのと大差ありません。判決が一定範囲に収束してこそ裁判に信頼性が生まれるのではないでしょうか。

 この最高裁の特殊な感覚の謎を解くヒントは但木敬一前検事総長の次の発言にあります。
『(裁判官と裁判員の協働)作業の結果、得られた判決というのは、私は決して軽くもないし重くもない、それが至当な判決であると・・・』(論座07/10月号)

 つまり国民が参加する裁判員制度による判決を無条件に「至当」とする根拠不明の認識は次の例にも見られるように、この制度の推進者に共通するらしく、これを前提として裁判員制度が作られてきたと考えられます。本当に「至当」なら従来の制度より判決が収束してしかるべきです。 バラバラな判決がそれぞれ「至当」である、つまり異なる「至当」がいくつもある状態とはどう理解すればよいのでしょうか、たいへん不思議な論理です。

 次の四宮啓早大法科大学院教授の発言も理解不能です。
 『模擬裁判で量刑がばらつき、公平な裁判ではないという声があるが、裁判官と裁判員が当事者の意見を聴いて十分に議論した結果は、適正な刑罰だ。それがプロの裁判官の相場とずれているなら、相場が見直されるべきで国民が議論した末の結論こそ「真実」だという考え方を日本社会は身につけていくだろう』-四宮啓早大法科大学院教授(07/12/30朝日新聞)

 量刑がばらついたとき、「(裁判員制度による判決が)プロの裁判官の相場とずれているなら、相場が見直されるべき」との四宮氏の主張は理解困難です。ばらついた判決に相場を合わせろとはちょっと論理的に不可能 であると思います。裁判員制度を推進されるお二人に共通する「高級」な論理を私は理解することができません。

 また、裁判員制度による判決が「至当」「真実」というならば、上級審の存在理由がなくなるのではないでしょうか。一審の方が優れているのなら上級審の判決が優先されてはおかしいことになります。逆に言うと、上級審を従来のままにしているという事実は、本音では裁判員制度にあまり信頼を置いていないということを示唆しています。 それほど優れたものなら高裁、最高裁も裁判員制度を取り入れるべきです。

 理解不能の論理、「至当」や「真実」という断定的な言葉を根拠も示さず、簡単に使う態度は原理主義や信仰とそっくりで、とても社会科学の記述とは思えません。

 また、この大差を「当然、想定していた」という最高裁の発言は、とにかく国民主権に基づいて国民が参加した裁判の結果 は「真実」であり「至当」であるから、差など気にしないということでしょうか。誤判など当然あるもので、仕方がないという無責任な態度とも解釈できます。

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(転載終わり)





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明治維新の背後に見え隠れするロスチャイルドの影

1862年12月、品川の御殿山に建造中だったイギリス公使館を、長州藩の尊王攘夷の過激派武士7人が爆裂弾で襲撃しました。この襲撃に加わっていたのが、のちに初代内閣総理大臣となる伊藤博文や井上馨、それに高杉晋作、久坂玄瑞、品川弥二郎らです。ところが、この襲撃からわずか5ヵ月に、伊藤博文と井上馨らはイギリスに密航しています。どうやら伊藤や井上は、イギリス公使館を襲撃した後、急激に思想の転向をしたようです。この時に密航したのは5人で、その費用は一万両、現在の価値に直せば約10億円という途方もない金額です。この密航を仲介したのが長崎の武器商人トーマス・ブレーク・グラバーであり、費用を用立てたのがアヘンの密輸と茶のイギリスへの輸出で巨万の富を築き、清朝をアヘン戦争へと導いた貿易会社ジャーディン=マセソン商会でした。

トーマス・ブレーク・グラバーは、1838年生まれのスコットランド人で、フリーメーソンでした。
21歳の時に来日し、23歳でジャーディン・マセソン商会と代理店契約を結び、25歳の時に現在でも観光名所となって残っている有名なグラバー邸を完成させました。このグラバー邸に、長州の伊藤博文、薩摩の五代友厚、亀山社中・海援隊の坂本竜馬、三菱財閥の岩崎弥太郎ら、幕末から明治にかけて活躍した人物が続々と訪れています。
グラバー商会は、ロイズ保険、香港上海銀行等の代理店でもありました。ジャーディン=マセソン、ロイズ保険、香港上海銀行は、いずれもロスチャイルド系列の企業です。

グラバーは長崎の外国商会の中で最大の武器商人であり、薩長のみならず幕府側にも武器を売っていました。戊辰戦争の帰趨を決めたのは武器の優劣の差ですが、薩長側は当時世界最新鋭の野戦大砲であるアームストロング砲を使って勝利を収めました。ところが、この大砲は、元々幕府がグラバーに注文していたものでした。しかしグラバーは、代金の未納を口実にして幕府に大砲を渡さず、これらを長州藩に横流ししたのです。
グラバー商会は、明治維新政府誕生と同時に、わずか10万ドルの負債を理由に不可解な倒産していますが、その資産と経営は、最終的にグラバーの弟子、岩碕弥太郎の三菱財閥に引き継がれます。
三菱造船所の前身となるドックをつくったのはグラバーですし、三菱のビール会社であるキリンビールを立ち上げたのもグラバーでした。

ジョン万次郎は、1841年に漂流していたところをアメリカの捕鯨船に助け出され、アメリカ東部のニューヘイプンで英語教育を施され、10年後に送り返されました。
帰国した万次郎は、薩摩藩で取り調べを受け、長崎でも取り調べにあい、1852年、高知の城下に移されます。
この頃、坂本龍馬と後藤象二郎、岩崎弥太郎も、万次郎に教えを請いに来ています。
万次郎は土佐藩に出仕した後、幕府に翻訳方として召し出され、ペリーの後任ハリス公使と交渉する際の通訳として働きました。
このとき、万次郎はハリスに幕府の老中たちの密談の内容を知らせていたようです。

1853年に浦賀へ来航し、砲艦外交(外交において軍艦の軍事力を背景として外交交渉を有利に進める手段)によって開国を迫ったペリーの航海日誌の中に、次のような記述があります。
「日本国内の法律や規則について、信頼できる充分な資料を集めるには長い時がかかる。領事代理、商人、あるいは宣教師という形で、この国に諜報員を常駐させねばならない。それなりの成果をあげるには、諜報員にまず日本語を学ばせなければならない」
つまり、万次郎はアメリカの諜報員であった可能性があります。
1860年、幕府がアメリカに使節を送った際、万次郎は幕府海軍操練所教授として一行に加えられ、咸臨丸で勝海舟や福沢諭吉と同船しています。ここで勝海舟と昵懇の間柄となりました。

その後、1865年には長崎で薩摩・長州・土佐藩のために軍艦購入の仲介をしています。購入先はグラバー商会。
こうしてジョン万次郎とグラバーを介して明治維新の主役たちが長崎のグラバー邸に参集することになります。

1862年、坂本龍馬は江戸に出府した後、赤坂氷川にあった勝海舟邸を千葉重太郎と共に訪ねて、ここで勝に弟子入りを認められます。
1864年、神戸に幕府海軍操練所が開かれ、勝海舟が軍艦奉行となり、人材を育成することになりました。

ところがこの海軍操練所は一年も経たないうちに閉鎖となり、勝と行動を共にしていた龍馬は長崎へ行き、海運会杜・亀山杜中を設立します。
5月に亀山社中を設立したばかりのビジネス初心者である龍馬は、8月にグラバーから7800挺の銃を入荷し、それを薩摩藩に売却するという、信じられない大仕事を速攻で成し遂げています。

また、1866年、薩長同盟が結ばれた際、龍馬がこれを仲介したことは有名ですが、実際には京都薩摩藩邸で行われた協議に出席していなかったことが最近明らかとなりました。しかし、合意文書には龍馬も署名をしており、ある程度、薩長同盟締結に関わっていたことは確かでしょう。ただ、一介の脱藩浪人が、何の後ろ盾もなしにこのような大事業を成功させたり、政治力を発揮することは普通なら考えられません。

グラバーは、薩長同盟成立前に既に薩摩と長州の人間(のちに明治政府の主要人物たち)をイギリスに密航させています。薩長同盟は軍事同盟ですから、グラバーがいなければ薩長同盟はありえなかったでしょう。何らかの理由で前面に立ちたくないグラバーが、龍馬を代理人として表に立たせたのではないでしょうか?
倒幕はグラバーとジャーディン=マセソン、その背後に控える英国なくしてありえませんでした。そして、当時のイギリスはロスチャイルド人脈によって支配されていたと言われています。

さて、伊藤博文らは明治憲法を作るために、1882年、再びイギリスに渡り、そのときロスチャイルド家の世話になったようです。
ロスチャイルドは「日本のような後進国にはイギリスの最先進国の政治体制は似合わない」として、ブロイセンぐらいが丁度良いだろうと、プロイセンから来ていたユダヤ人憲法学者ルドルフ・フォン・グナイストとロレンツ・フォン・シュタインを紹介しました。
こうしてグナイストらに学び、作られたのが明治憲法、そして近代日本というわけです。
明治維新という革命によって、資本主義のレールに乗せられた日本。この頃から国際金融資本の術中にはめられていたようです。




原賀隆一

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