学者とマスコミが人類を破滅に導く

2015年01月

戦後民主主義教育とは、バカな大衆を作る教育だったのではないか、という記事を紹介したいと思います。

中学校教員をされている方のブログ「数学屋のメガネ」、
「[教育]戦後民主主義教育の欠陥はアメリカの民主主義教育の欠陥と同じだった」リンクからの引用です。

(以下引用)

昨日のメーデーの集会の帰りに寄った書店で刺激的で面白い本を見つけた。『バカをつくる学校』(成甲書房)という本で、著者はジョン・テイラー・ガットという、ニューヨーク州で最優秀教師として表彰された人だ。ここではアメリカの義務教育学校が批判されているのだが、その批判がそっくりそのまま日本の学校に当てはまるのを見て驚いた。

僕は、小室直樹氏の指摘によって、戦後民主主義教育の欠陥というものを考えるようになったのだが、それは日本だけの特殊な状況ではなかったのだ。実は、日本が手本にしたアメリカの民主主義教育にそもそも欠陥があったために、その忠実なコピーとしての日本の教育にもそっくりそのまま欠陥が移されてしまったというのが、戦後民主主義教育の正しい理解ではないかと感じた。

(中略)

ジョン・テイラー・ガットさんの指摘を見ていると、そこで語られているのは義務教育学校の欠陥だ。これはより抽象化して言えば、大衆教育の欠陥ということができるだろう。アメリカという国の統治権力が、大衆に期待している資質を教育する学校として義務教育学校を考えた場合、大衆がバカであってくれたほうが都合がいいという意図がかなり見えるようなのだ。アメリカにおける「バカをつくる学校」は、努力したにもかかわらず結果的に間違った教育をしてバカをつくってしまったというのではなく、かなり意図的にバカをつくっているようなところがあるのを感じる。

そもそもアメリカの民主主義というのが、実は資本主義の繁栄を支えるような社会を維持することを目的としているのではないかいう感じもする。資本主義の繁栄のためには、自分の生活を反省して自分の頭でよく考える人間よりも、刺激に対して単純に反応して気分的に快感を得ることを好むような消費者が多くいたほうが、資本主義的な大量消費のためには都合がいい。

民主主義教育の欠陥は、資本主義の物質的豊かさを維持しようとする意図を単純に捉えるところから生じるのではないかと思える。おそらくその欠陥を埋める部分がエリート教育の中にあるのではないかと思う。それは、かつて先進国に追いつこうとして暗記教育に偏った日本の古いエリート教育ではなく、先駆者としての意識と実績を正しく反映したエリート教育にならなければならないのではないかと思う。

資本主義的な豊かさを単純に肯定すれば、「バカをつくる学校」としての大衆教育にならざるを得ないのではないだろうか。資本主義の発展と維持のためには、少数のエリートと大多数のバカな大衆をどうしても必要としているのだろうか。もしそうであれば、資本主義的な豊かさというのは、必ずしも人間を幸せにはしないといえるだろう。

(中略)

バカをつくる大衆教育は変えられなければならないと思う。大衆の中にもスペシャリストをつくるようなエリート教育が必要なのではないだろうか。かつて、貧しいながらも自分の仕事に誇りを持っていた人々がいたように、特別の分野では指導的立場に立てる大衆を育てるという教育が、今の「バカをつくる学校」を克服するためには必要なのではないだろうか。

日本の教育制度のように、単一のモノサシで序列化して、そのモノサシで評価されたもののみがエリートになり、落ちこぼれたものは大量の「バカな大衆」になるように運命付けられた教育は、未来においてはかえって資本主義を衰退させるようになるのではないだろうか。

この本は実に刺激的で面白い。書かれている内容のすべてが考察に値すると感じる。これから細かく一つずつ取り上げて考えていきたいと思うが、まずは冒頭に書かれている義務教育学校の欠陥としての「一貫性のなさ」の指摘を紹介しよう。この本では次のように書かれている。

「実際、私の教えることにはまったく脈絡がない。何もかもがバラバラで、めちゃくちゃである。惑星の軌道、大数の法則、奴隷制、形容詞、設計図、ダンス、体育館、合唱、集会、びっくりゲスト、避難訓練、コンピューター言語、保護者会、教員研修、個別プログラム、ガイダンス、実社会ではあり得ない年齢別のクラス……。いったいここにどんな一貫性があるというのだろう。」

ここでの指摘は、学校で教えていることの全体を把握して、その横のつながりを考える人間がいないということの指摘だと思う。それぞれの教科は、その教科にとって大事なことを教えようとする。これは、教科に携わる人間の利権でもある。教員はまさに当事者としてそうだし、教科書を執筆する人間や、問題集を作成する会社なども大きな利権を持っているだろう。その利権を小さくするようなことはあまり行われない。そのため、かなり無駄な知識だと思われても、学校教育からそれが削られることがない。

僕は、中学校数学の大部分はいらないと思っている。義務教育の学校が大衆が学ぶ学校という意味で考えるなら、専門的な知識は要らないと思う。むしろ基本的なものの考え方をもっと深く知るべきだろう。それこそが大衆の中にエリートを作り出す基礎になるものだ。基本的なものの考え方を深め、それを基礎にして自分の個性にあった専門分野に進むというのが、大衆教育を基礎にしたエリート教育と呼べるのではないだろうか。

もしそのような過程を経て誕生した大衆が増えれば、専門教育分野においては、誰が真に優れた人間かを判断することも出来るようになるだろう。見かけにだまされるのではなく、本当の実力を持った人間が指導的立場につくようなシステムが誕生することが期待できる。今の大衆教育では、まったく専門を持たない、ものの考え方の基礎訓練がされていない大衆を生み出しているので、見かけにだまされた見栄えのする指導者に酔いしれてしまうような状況が生まれる。ファシズムにとっては実に都合のいい状況だろう。

民主主義教育は本質的な欠陥を持っている。すばらしいものでもなんでもない。学校がいやだった自分の気持ちは正しかったと、この本を読んでそれに確信が持てた。さらに批判の細かい部分を読み込んで、抽象論としての民主主義教育の欠陥が、現実の日本の戦後民主主義教育にどのように現れているかを考えてみようかと思う。

(以上引用終わり)





新川啓一

80年代の校内暴力にはじまり、90年代の学校崩壊・青少年犯罪・コギャルの発生、00年代のモンスターペアレンツetc.etc教育の崩壊→社会の崩壊(ガタガタ)現象は止まらない。

それは、私権の衰弱→私権規範の崩壊が社会背景にあるが、戦後の教育(思想・理念)を押え直すことで更に見えてくる。

自由、平等、人権etc.
中でも、「自主性や自発性を重んじた個性活動を根本原理においた教育」を重んじたことに問題(矛盾)があり、“自主性”とは耳障りがいい言葉ではあるが、何をやっても許される、自発性が湧かなければそれでもよいとも思える。

「今が楽しければいい!」という享楽主義も充足発から来るものかと思っていたが、単に興味関心、本能の赴くまま、解脱を貪りたいという興味関心主義教育の帰結だったのではなかろうか?

西洋の個人主義に基づく興味関心主義教育、とりわけ戦後教育がいかに堕落への道へ導いたのか解かりやすく書かれていた内容を紹介します。

「コギャルがあざ笑う戦後教育」 リンク より
転載します。
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 94年にコギャルが発生したとすれば、コギャル第一世代が生まれたのはちょうど80年(昭和55年)前後となる。コギャルの親が団塊世代という指摘はすでになされているが、この世代の価値観を決定づけたのが戦後の学校教育である。

 団塊世代は40年代後半のベビーブームに生まれ、55年頃に小学校に入学している。当時は60万もの組合員を擁する日教組が全国の学校を支配化に置き、道徳教育や勤務評定をめぐって文部省と激しく対立していた。デモとストが頻繁に繰り返され、教師が労働者だという認識が広がったのもこの頃である。

 これら日教組の教師が熱に浮かされるように推進したのが、いわゆる戦後民主主義教育である。大正自由教育と左翼イデオロギーが奇妙に融合したこの教育理念は、かつての軍国主義を台頭させないという名目のために、戦前の文化や思想・教育形態をことごとく否定したものであった。教育史的には「全体主義に奉仕する練成教育から、自主的な問題解決を軸とする体験学習への移行」であり、「自主性や自発性を重んじた個性活動を根本原理においた教育である」とされるが、戦前を全否定するという極端な発想であるだけに、当初から多くの矛盾をはらんでいた。

 こうした理念が初めて登場したのは、教育勅語をおいてである。45年、日本の非軍事化と民主化を進めるGHQは「修身、日本歴史、地理の授業停止」を命じて国家主義教育の一掃をはかったが、教育勅語だけは占領政策に天皇制が必要であるという理由から明確には否定できないでいた。文部省も国体護持のために教育勅語を存続させようとしたが、48年の衆参議院においてその失効決議が採択される。その論拠は「内容に一点の瑕疵がなくても、完全な真理であっても、専制君主の命令で国民に強制したところに間違いがある」というものであった。強制の排除、権威の否定といった戦後教育の根本理念はここから始まる。

 しかし、この発想には大きな陥穽がある。近代の学校とは社会生活に必要な知識や技能を体得させるために設置されたものであり、生徒の意思にかかわらず、生徒を強制的に登校させ、時間的にも空間的にも拘束し、知識や技能を強制的に教えることから成立している。つまり「強制」とは学校教育の根本理念であり、それを排除していけば学校は崩壊するしかないのだ。

 また、「真理であってもそれを強制的に押しつけてはいけない」という考えからは戦後教育の理想とする「生徒がそれぞれの自主性によって真理を獲得する」という自主性尊重の概念が生まれるが、これも現実性のない空論である。そもそも、この世に普遍的な真理など存在しない。殺人という重罪でも人口抑制という見地に立てば肯定できるし、礼節や恩愛、孝行といった徳目もその社会を円滑に営むための相対的な価値観でしかない。これらを何の強制もなく、しかも社会が望むような形ですべての生徒が自主的に体得できるというのはまさに夢物語でしかない。戦後民主主義教育を信奉する教師たちはこの矛盾を解決するために、子供の本性は善であるとして「強制を排して自由にのびのびさせれば、誰もがその善性を発揮して理想とする徳目を体得できる」と説くのであるが、これが妄説であるのは今日の凶悪な少年犯罪を見ても明らかだろう。

 また、強制を排除しても生徒が真理に到達するのなら、教師の権威性は不要となり、教師と生徒は対等な関係となるが、こうした平等空間では教育は成立しない。生徒の誤った価値観や行動を矯正できるのは、教師側の権威性によるものであり、教師が友人として同じ立場に立つのならば、感情的な理由でいくらでも指導を拒否できるからだ。

 戦後民主主義教育はこうした矛盾をはらみながらも、戦前の軍国主義教育に対するアレルギーから広く受け入れられ、様々な教育実践がなされていった。多くの教師は真に民主的な日本を作ろうと真摯な努力をつづけたが、矛盾を内包した理念であるだけに、自主性を尊重するという美名のもとに極端な放任主義に走ったり、共産主義革命を扇動する教師が現れたりと、当初から様々な問題が生じていた。また、生徒と教師が対等であることを示すために教壇を撤去し、教師をさんづけで呼ばせるとか、学力テストを全廃し、運動会の順位づけをしないということで平等主義を標榜したりという、皮相で短絡的な実践が一般化していった。

 この影響をダイレクトに受けたのが団塊世代である。彼らが左翼イデオロギーに傾倒し70年安保や高校紛争の中心勢力となったのは必然的な結果といえよう。

 団塊世代の特徴として、家庭の中にも旧秩序打破の思想を持ちこみ、親と子の上下関係を認めず(平等主義)、モラルやしつけの押し付けをせず(強制の排除)、自主性にまかせるといった(自主性尊重)まさに戦後教育的な子育てをしたことが知られている。こうして登場したのが、相互の甘え構造からなるぬるま湯的な家族(ニューファミリー)である。

(中略)

 日教組と和解して以来、文部省も戦後教育思想に染まっているようだが、これは現実の問題を理想論で処理しようとする危険な徴候である。詳述したように、多くの教育問題は自由や平等、人権といった「きれいごと」を敷衍しようとして起きているからだ。
(後略)
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西村真治

『絵本を使った市場拡大大作戦』(精神科医の犯罪を問う)リンクより転載します。
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過去に研究費の不正を行っていた精神科医が主任研究を務める「厚生労働省科学研究費補助金こころの健康科学研究事業『思春期精神病理の疫学と精神疾患の早期介入方策に関する研究』」は、本格的に小学生や中学生を一生薬漬けにしたいようです。

リンク
ここでも紹介されていたように、子どもに読める絵本を作り、長崎県内の全小学校約400校に既に配布されたようです。中学校にもまもなく配布されるようです。5巻1セットで400校に配布されるとなると、1470×5×400=2,940,000円。これに郵送費などがさらにかかるわけですが、そのお金はどこから来ているのでしょうか?もしかして我々の税金からですか?それとも製薬会社からですか?

今日、その中身を見ました。予想以上の出来に衝撃を受けました。この驚きと感動を独り占めしても申し訳ないので、皆さんと少しだけ共有しようと思います。多くは語りませんのでとりあえず一部をご覧下さい。


「ナイフを背に隠して笑顔で近付いてくる人」をリアルで見た思いでした。「クスリはやめない」という表現のように、時折ナイフがちらつきますね。

その原因も機序も本当にはわかっておらず、「有力な説」としか説明できないにもかかわらず、統合失調症は脳の病気だと断定しています。クスリ以外に治す方法はなく、一生飲み続けないといけないと脅しています。副作用に関する記述がほとんど書かれていないのも不自然です。この本で「はるかに副作用も少なくなっています」と紹介されている新型抗精神病薬は、全て添付文書で「小児に対する安全性は確立していない」と書かれているんですが、何故それに言及しないのでしょうか。

厚生労働科学研究は、科学的でない誤った主張を許すのでしょうか?子どもたちに誤った情報、意図的に省略された情報が行き渡ることを助長するのでしょうか?子どもたちが危険にさらされることを推奨するのでしょうか?子どもを一生薬漬けするために我々の税金を使うのでしょうか?抗議すべき研究内容です。

あなたの子どもが通う学校にこの本が置かれていたらどうしますか?

 ~後略~
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絵本の紹介
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衝撃です!






猛獣王S

このように文字にすれば、より深く考えたり構造化することも可能になるが、その反面、ますます難解になってゆく(仏典も神学も近代思想も)。その結果、専門家以外は理解できないものになり、人々は無関心になってゆく。'70年以降、近代思想も輝きを失い見捨てられた。

この難解化は観念あるいは観念力の高度化と言えるのか? 知識階級の自己満足ではないのか。

中世キリスト教会でトップレベルの頭の良い神官たちが神学論争に明け暮れていたのが、その象徴である。

論理矛盾を説明しようとすればするほど、膨大な論証が必要になる。しかし「三位一体」をはじめとして元々から矛盾しているものを矛盾していないかのように繕えば繕うほど、全体が詭弁と化してゆく。難解になるのは当たり前である。そんなものを読んで理解したと喜んでいるのが学者という存在なのである。

例えば、ドーキンスの利己的遺伝子論は完全な詭弁である。生物史には、個体が原点という事実はどこにもない。にもかかわらず無理矢理、生物進化を個人主義に結びつけようとして「遺伝子は利己的」と結論づけようとしたのがドーキンスである。

こうして学者たちは捏造に捏造を重ねてきた。そして誤魔化しや捏造を重ねれば重ねるほど、難解になってゆく。しかし、詭弁を糊塗するために捏造された難解な文章や学問を理解することに、一体何の意味があるのか?

思想や経済学だけでなく、自然科学も例外ではない。

例えば、物理学は読んだだけでは「何故こんな数式になるのか?」理解できない。その理由はいくつかあるが、その一つが、物理法則にさえ詭弁の構造が孕まれていることである。

無数の要素や力が複合的に絡み合って働いているのが現実の自然世界(宇宙の運動)であるが、たかが人間の脳レベルでは全体を構造化することはできない。そこで自然科学者たちは、関係する要素や力をほんの数個に限定し、その他の要素を捨象した人工的な特殊限定空間で実験を繰り返してきた。そうしてできた科学法則は、現実には存在しない特殊空間(実験室)でのみ成立する限定的な法則にすぎない。

そのことを昔の自然科学者たちは自覚していたが、現在の学者たちは、そのことを忘れてor忘れた振りをして、特殊空間においてのみ成立する法則を、あたかも普遍的な真理であるかのように発信する。

とりわけ、食品系の学者の主張はペテンそのものである。
体内では無数の物質が複合的に影響し合って働いている。どの物質とどの物質が複合的に結びついたら、どのように作用するのかということは未解明のままである(現在の科学はその程度の幼稚なレベルにすぎない)。にもかかわらず、ある一つの物質だけに着目して、その作用や危険性を喧伝するのはペテンと言うしかない。タバコ=ガン犯人説然り、CO2=地球温暖化犯人説然り。今や、自然科学も全く信用できない代物に成り下がってしまった。


●理解する=解釈することに意味があるのか? 理解=解釈しようとすること、それ自体が騙しではないのか? 理解しようとしなければわからない対象は全て詭弁なのではないのか? この問題は、今後も継続して追求してゆく。

それだけではない。追求途上にある「観念力とは何か?」は、その先がある。

反復千回の効用は明らかになったが、それだけで十分なのか?
とりわけ、現在は旧観念に代わる新理論が求められる時代だが、新理論の創出にはどのような能力が必要とされるのか?






匿名希望

2600年前、同時期に仏教・儒教・ユダヤ教という古代宗教が登場し、その300~400年後にそれぞれの地域で統一国家が成立した。

それまでの部族連合国家では守護神信仰や神話の共認によって統合されていたが、部族間の緊張圧力や交易や連合、さらには服属部族をどう支配するかといった課題に対しては、部族間の意思疎通が不可欠であり、その部族の中でしか通用しない守護神や神話では統合できない。部族を超えた普遍性のある観念が必要になった。こうして各部族の潜在意識のレベルで社会統合機運が上昇し、それを鋭敏にキャッチして、守護神や神話を超えた、より普遍的な観念(古代宗教)を作り出したのが、釈迦や孔子やユダヤ教の預言者たちである。

そこでは、(普遍性の高い)抽象的な概念が前面に出てくる。例えば、儒教であれば「仁」が最高価値とされた。弟子たちは孔子に「仁とは何か?」と何回も問うが、孔子はその定義を明確に答えるわけではなく、事例を述べるだけであった。

観念機能は、言葉回路と文字回路に分解することができるが、孔子と弟子たちの対話による問答で使われているのは言葉回路である。話し言葉は本能・共認回路に直結させやすいので、「仁」などの抽象概念もいちいち文字回路の位相に置き換えて使われるのではなく、話し言葉の地平で使われていたに違いない。

そして、孔子の弟子たちは(釈迦の弟子たちも)その問答を文字として書き留めた。なぜ、彼らは文字として書き留めたのか?

話し言葉は瞬間瞬間で消えてゆくのに対して、文字は内容を眼前に存在させ続ける。求道者であった孔子や釈迦と同じく求道者であった弟子たちにとって、文字として固定すれば、瞬間に消えてゆく話し言葉よりも深く探求したり、体系化することが可能になる。その必要から、彼らは文字として書き留めたのであろう。

それに対して、近代~現代の学者は求道者ではなく、単なる解釈者にすぎない。とりわけ明治以降の日本の学者がやってきたことは、西洋の学問を解釈し理解することであった。しかし、西洋発の近代思想はもはや終わっている。

現在求められているのは、新たな理論体系を構築する求道者である。
このような時代の位相から考えても、理解主義や解釈主義が今や無価値であることは明らかではないだろうか。

解釈主義に立つ以上、思考はそれに支配され、トコトンまで洗脳され、それを超えた発想は出てこない。それに対して、求道者は自らが生み出した新しい観念に支配されてしまうのではなく、その観念を足がかりにしてさらに新しい認識の体系を構築してゆく。このように求道者と解釈者というパラダイムが違えば、同じ文字を使っても、その思考の自在さは全く違ってくる。






匿名希望

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