学者とマスコミが人類を破滅に導く

2015年02月

カルト。ヨーロッパなどでは『セクト』と呼ぶ。
従来、宗教団体や先進的な試みを実践する集団が、カルト集団などと揶揄されてきたが、本当のところどうなんだろう。

以下、通常の宗教かカルトかを判定する国際的指針『アラン・ジュスト報告書』に上げられる条件として

1.精神の不安定化
2.法外な金銭的要求
3.住み慣れた生活環境からの断絶
4.肉体的保全の損傷
5.子供の囲い込み
6.反社会的な言説
7.公秩序の攪乱
8.裁判沙汰の多さ
9.従来の経済回路からの逸脱
10..公権力への浸透の試み
上記の10項目が挙げられている。

これらが当てはまる集団として思いつくのは・・・
マスコミ、官僚組織、金融業界、学者(大学)

私権が衰弱し、旧態依然の思考や制度では社会に適応できなくなっている。
その中で、相変わらず自己中甚だしく、旧体制の維持に執着する人々=社会に受け入れられてない人とは、まさしく特権階級であり、彼らはもはや社会的にカルト集団化しているのではないか?






匿名希望

>生物を構成する細胞は、日々生まれ変わっている。古くなった細胞を廃棄すると同時に、内側から新たな細胞を次々と生産し、塗り替えている。この構造を上記の旧体制の統合階級と、新しい共認統合をし始めた一般庶民とに当て嵌めてみるとどうか。(235850

この細胞原理を現状の社会統合と照らし合わせた認識には感嘆する。

>つまり、この国家を取り巻く外側で、あたかも国家を支配した気になっている統合階級は、既に皮膚の垢となり、今にも朽ち果てようとしている段階であり、その内側から既に新たな仕組み=共認原理によって統合された新たな社会が生まれようとしている。(235850

生物の外側の皮膚細胞は、その細胞が生まれた時点での外圧に適応する為に形成されたものであり、外圧が変化すると同時にその外圧に合わせた細胞が新たに産みだされる。夏の日差しの強烈な日焼けにより、メラニンが増殖し褐色になった皮膚細胞がやがて剥がれおちるがごとくに、社会の統合は変化してゆく。この社会統合変化イメージには、感覚的にも一分の違和感もない。

恐らく、この現在の社会統合の外部構造と内部構造的なるこのような統合関係は、社会統合の領域だけではなく、企業や集団、そして最小単位である個体の意識統合の領域においても、同様の自己相似形態を以って現在進行していると思われる。

私権原理から共認原理への移行が、社会から企業集団から個人に至るまでの各位相で、自己相似かつ時間軸上も同時平行で進んでいるという仮説は、外圧が変化した時の「種」の適応本能として捉えるならば、変化構造としてなんら不思議な事ではないだろう。

そういう意味では、現在の集団や企業・血縁や家族やなかま・個人も各々の位相で、新たな仕組みによって各々が統合される直前の状態であるのだともいえる。





ジャック&ローズ

235409 「ブログ脳<=>テレビ脳」ブログマニアさん
>先日TVで、「ブログ脳」というのをやっていた。諏訪理科大の教授が、ブログ作成中の脳活動について実験をし、ブログ作成中においては言語に関係したエリアが働かず、単に快感エリアが反応しているだけだと結論づけていた。

 ブログ脳というのは、知りませんでした。ネットで調べてみると、最近ではさらにツイッター脳という言葉まで出てきているようです。

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■ツイッター脳とブログ脳 
>今日でちょうどツイッター始めて1カ月を迎えるわけですが、
1日平均のつぶやきは21.6件。
今日に至っては79件もの投稿をしている。

>ただ、ツイッターは恐ろしい。
ツイッターは、
「終わりのないオンラインゲームを
やっているような感覚」なのだ。
(このつぶやきもそこそこRTされた)

>ツイッター脳とブログ脳は違う。
ツイッターがない頃は、
ネット、新聞、雑誌、テレビを見ていると常に、
「これで日記1つ書けるかな」と思考を働かせる。
日記1つ書ける程度の内容か、
頭の中でシミュレーションし、
自分のフィルターを通して筋書きをぱっと考え、
「これなら1日記になるかな」と思ったものを、
表題だけ自分宛にメールし、時間のある時に書いていた。

>ところがツイッターを始めると、
頭の思考がツイッター脳に切り替わってしまった。
ツイッターはどんなに長くても140文字。
一言、一文でもいい。

>そうやって「何かおもしろい一言ないかな」と、
脳の使い方がブログ脳(1日記思考)から、
ツイッター脳(1つぶやき)に変わってしまったため、
さあブログ(mixi日記)を書こうと思った時、
日記思考で頭を使っていなかったら、
アイデアがすぐに浮かばないのだ。

>使うツールによって、
人の思考回路が大きく変わってしまうのだ。

>これはネットツールに限った話ではなく、
普段の思考回路、すなわちアンテナの張り方という意味で、
非常に大きなヒントになる。
自分がどこに興味を持つか、アンテナを張るかで、
同じ情報を受け止めていても、
アウトプット=結果が違うのだ。

>ツイッター脳とブログ脳が違うように、
自分がどんな結果を出したいかで、
アンテナの張り方を変えれば、
同じ現実世界でも大きく変わって見えてくると思う。

「つぶやきかさこ」さんよりより抜粋引用(リンク
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 上記の話は、非常に興味深い。脳はツール(様式)やその使い方(目的)によって働き方が変わるということだと考えられます。

 とすれば、下記の点での違いによって脳の働き方はまったく変わってくると思われます。

・目的は?=何のために使うのか、それによって何をしたいのか?
・使い方=インプットのみかアウトプットも行うのか?
・様式による制約は?=論文、記事、日記、一言などの文章様式
・媒体の機能的特徴=文字中心か映像中心か?

 しかし、ブログであれ、何であれ、その中身(観念)によって脳の反応(情報刺激)は全く違う。むしろ、媒体による違い(本、TV、ブログ、ツイッター等)よりも、本質的にはその観念内容の違いの方が、脳に与える影響は大きいのではないでしょうか?

 よって、学者がTV脳、ブログ脳、○○脳というように表面的な違いのみを問題にすることよりも、重要なのは脳を働かせなくする(というより特定の価値観に染まらせ、事実を見えなくする)「支配観念」の垂れ流しの方がより大きな問題なのだと思います。




浅野雅義

菅直人首相、千葉景子法相、辻元清美議員の例を以って「左翼はすぐに転向する」235591という捉え方もできないことはありませんが、民主党が敗北し転向した本質的な理由は、否定の論理しか持たなかったことにあります。

'09年の衆院選で民主党は、脱自民(反特権)の潮流を追い風に、自民党批判・官僚批判と「政権交代」をスローガンにして圧勝し政権を獲得しましたが、政権を獲得するというのは何事かを実現する立場になるということであり、そこでは批判するだけでは済まされません。ところが、民主党には自民党批判・官僚批判といった否定の論理はあっても、「では社会をどのようにして変えてゆくのか?」という実現の論理はありませんでした。

例えば、事業仕分けをするのであれば、あるいは郵政民営化を差し戻すのであれば、「では、国家財政や郵貯350兆円を社会再生のためにどう使うのか」という答えが求められます。また、普天間基地を沖縄から移設するということは脱米路線に舵を切ることと同義ですが、であれば脱米後の外交や国防をどうするのかが課題となります。あるいは官僚批判をするのであれば、官僚支配に代わる社会統合の仕組みをどう構築するかが課題になります。

ところが、「民主党マニフェスト2009」リンクには、官僚批判⇒「政治家主導」「国民の生活第一」といったスローガンやバラマキ政策はあっても、「社会をどのように変えようとしているのか?」その実現イメージすら読み取れません。さらに、本気で社会を変えようとすれば、その実現基盤が発掘できるまで社会の構造を掘り下げ解明する必要がありますが、そのような実現ベクトルに貫かれた追求の形跡は見当たりません。

そして、否定の論理しか持たず、実現基盤はおろか実現イメージさえ持たない民主党がいざ政権を担うことになっても、これまで社会を統合(支配)してきた官僚組織を解体することなどできるはずがありません。逆に官僚たちに縋らざるを得ず、その言い成りになって政権交代から1年も経たずに転向者が続出するのは、当然の成り行きだったのです。

このように、否定の論理だけで実現の論理を持たなかったこと、それが民主党が敗北し転向した原因ですが、では、民主党が否定の論理しか持ち得なかったのは、何故なのか?

私権時代の全ての既成観念(古代宗教と近代思想)は、この異常な現実否定意識に基づいて作られている。その証拠に、これまで現実を否定する意識は、常に暗黙の内に正(義)として意識され、現実を否定する意識そのものを疑うような意識は、全く登場してこなかった。これは、現実否定→倒錯思考が、私権時代を貫く思考のパラダイムである事を示している。

>このパラダイムの内部では、それによって作られた観念群をどう組み変えても、又、どれだけ深く思考を巡らせても、決してパラダイムそのものを否定することは出来ない。だからこそ、これまで現実を否定する意識に対する懐疑(例えばデカルトの「我、思う」ことそれ自体に対する懐疑、例えば、思い続けている自分がおかしいのではないかという懐疑)は、針の先ほどさえ全く生じ得なかったのである。「現実否定の倒錯思考」20354

つまり、現実否定意識に基づく近代思想から脱却できない、従って否定の論理しか持ち得ないことが、民主党が敗北し転向した根本原因なのです(否定の論理とは敗北の論理であるとも言えるでしょう)。





冨田彰男

リンク より


菅直人首相、千葉景子法相、辻元清美議員の例を持ち出すまでもなく、政治家にしろ文化人にしろ、また学者や思想家にしろ、左翼とか左翼市民運動家というものは機を見るに敏で、時至らばいつでも転向するという体勢を整えている人種である、と僕は若い頃から確信していたが、その確信は、最近になって、いよいよ深まりこそすりれ、決して弱くなることはない。

僕が自民党を批判し、民主党を擁護する言論を展開することが少なくないことから、「お前は左翼ではないのか」という批判を受けることがあるが、僕は、言うまでもなく自分の思想的立場を「左翼」と思ったことは一度もない。といっても、最近の「一億総保守」時代の、いわゆる「保守」バブルに便乗して一儲けしようと企んでいるわけではない。僕は、左翼全盛の全共闘時代にも自己意識としては「保守反動派」を自称していたし、それは、「一億総保守」時代を迎えた今でも変わりはない。

むしろ、僕は、最近の右翼や保守を声高に自称し、にぎやかに天下国家を語り、歴史観や国家観、あるいは国益を論じ、大衆や国民に向かって、あるいは政治家達に向かって、愚にもつかないような「お説教」を得々と繰り返すような鈍感な連中に対して違和感と侮蔑感を禁じえない。
そこには「左翼化された右翼」、「左翼化された保守」しか見つけることが出来ない。僕が、ここで「左翼化」というのは、「イデオロギー化」とか「概念化」「理論化」というほどの意味である。

前衛意識に凝り固まった似非エリートの群れ・・・。
さて、左翼は、何故、転向するのだろうか。そして、何故、右翼は、あるいは保守と言われるような人たちは転向しないのだろうか。むろん、現在、右翼とか保守と自称している人たちの中には、多くの元左翼が含まれているから、そういう左翼からの転向組であるところの右翼・保守は、再び、あるいはみたび、転向するかもしれない。

かつて戦時中、思想弾圧と戦争ブームに乗って左翼から転向してきた右翼・保守思想家連中が、戦後の民主化の波に乗って、再び元の古巣の左翼(共産党)に転向していったように・・・。
ところで、僕が「転向」に拘るのは、そこに左翼的思考様式の典型を見出すからである。吉本隆明に『転向論』という名著があるが、そこで吉本は、必ずしも左翼から右翼・保守への転向者を、その転向故に批判し否定したのではなく、むしろ、宮本顕治のように、「獄中○○年」を過ごしながらも、「転向しなかった」という連中をも批判しているが、その根拠を日本的な「大衆」との距離に求めていて、大衆との距離の自覚、あるいは無自覚こそが、人を転向させたり、させなかったりするのだと言っていた。

つまり、思想信条の問題ではなく、吉本隆明の言うところの「関係の絶対性」が問題なのである。言い換えれば、左翼が簡単に転向するのも、また転向せずに教条主義に陥るのも、たとえば田舎に住む父親や母親、あるいは兄弟姉妹に象徴される日本的な下層大衆(沈黙する国民)というものの存在を軽視し、無視・軽蔑しているからであり、逆に右翼・保守派といわれるような人たちが、なかなか転向しないのは、そういう田舎に住む下層大衆(沈黙する国民)とともにあるからだ、と言うことが出来る。吉本隆明は『転向論』でこう書いている。

日本的転向の外的条件のうち、権力の強制、圧迫というものが、とびぬけて大きな要因であったとは、かんがえない。むしろ、大衆からの孤立(感)が最大の条件であったとするのが、わたしの転向論のアクシスである。生きて生虜のはずかしめをうけず、という思想が徹底してたたきこまれていた軍国主義下では、名もない庶民もまた、敵虜となるよりも死を択ぶという行動を原則としえたのは、(あるいは捕虜を恥辱としたのは)、連帯認識があるとき人間がいかに強くなりえ、孤立感にさらされたとき、いかにつまずきやすいかを証しているのだ。(吉本隆明『転向論』講談社文藝文庫p291)

<中略>

相変わらずの大衆蔑視、衆愚批判である。西部邁は、大衆の「集合的無意識」の恐ろしさを知らない。愚かな大衆は、西部邁より先を走っている。西部邁が転向を繰り返す根拠はここにある。

西部邁は、左翼過激派時代に逮捕され、刑期を終え、落ちぶれた姿で、北海道に住む両親の家に帰った時、父親に門前払いをくらい、暗い夜道を、一人とぼとぼと引き返したことを、何処かに書いていたが、その時、彼は何も自覚しなかったのだろうか。

それとも、また、夢よもう一度とばかりに、今度は東大教授に成り上がり、ないしは保守思想家として出世して、有名になって故郷に錦を飾り、凱旋しようと誓ったのだろうか。

いずれにしろ、ここには、「西欧の政治思想や知識にとびつくにつれて、日本的小情況を侮り、モデルニスムスぶっている、田舎インテリ」がいるだけのように見えるし、「これらの上昇型インテリゲンチャの意識は、後進社会の特産である」(吉本隆明)ということになろう。

要するに、西部邁の思想遍歴に「思想性」はないのである。ところで、保守思想家としての西部邁は、「自民党自滅」と「政権交代」で絶望的な気分になっているのであろうが、しかし政権交代を可能にしたのも大衆であり、参院選で民主党を惨敗に追い込んだのも大衆である。

大衆に見捨てられた西部邁は、また大衆に追いつくために「再転向」するのか。大衆の「集合的無意識」の恐ろしさに直面させられて、今や顔面蒼白に青褪め、呆然と立ち尽くすだけのデクノボーになっているのが菅直人であるが、おそらく西部邁も似たようなものだろう。【引用ここまで】




田中直人

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