学者とマスコミが人類を破滅に導く

2015年02月

『どうやら今の政治を全否定する時がきたようだ』(天木直人のブログ)リンクより転載します。
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どうやらこの国は、私が冗談交じりに唱えてきた既存の政党、政治家を全否定しなければならない臨界状態に突入しつつあるようだ。

偶然にも同じ日に行なわれた民主党と社民党の党内対立の模様を見てそう確信した。

もう元には戻れない。戻ってもうまく行かない。国民の共感を呼ぶような政治は彼らにはできない。

社民党はどうなっていい。しょせん極小野党だ。国民の大多数にとってはどうでもいい。

しかし民主党は違う。政権政党である。 そんな民主党がこんな状況だ。

なぜ9月なのだ。なぜ今すぐ代表選挙を行なって再出発しないのか。

菅直人代表で再出発するのか、それとも小沢一郎と妥協するのか。あるいは、そのいずれもがうまく行かないのであればどちらかが民主党を割るのか。

それをはっきりさせろ。

国民はどちらでもいいのだ。早くスッキリさせて力強い政策を進めろと言っているのだ。

そもそも、民主党がこんな悠長な事ができるのも野党第一党である自民党がまったくダメだからだ。

国民はよく見ている。本当に自民党が出直しているのならとっくの昔に菅民主党は終わっている。

それがそうならないのは自民党がもっと悪いからだ。自民党は終わっている。

政治評論家はきまってこういう。

日本の状況はこんな事をしている時ではない。

政局よりも政策を政治家に求めている、と。

それは違う。政策がないから政局になるのだ。

たとえ政策があっても政策で一致した連中が集まらないから政局になるのだ。

そんな政治をそろそろ国民は全否定しなければならない。

政治家がいなくなったら日本は誰が動かしていくのかだって。

そんな馬鹿な事を言っているから馬鹿な政治家が蔓延するのだ。

政策はわれわれが作っていく、それしかないだろう。あたりまえの事だ。
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猛獣王S

 皆さん、健康診断の結果を見るたびに、『コレステロール、何とかしなくては?』と感じていませんか?コレステロールに関して、目から鱗の記事がありました。参考になると思い引用させていただきます。(以下引用)
リンク

武田流 健康法 (10) 誰だ!悪玉コレステロールと言ったのは!

「悪玉」コレステロールなどコレステロールの前に「悪玉」とか「善玉」とつけるのは事実とは違います。自分の健康のことですから、いい加減な解説に右往左往せずに、しっかりと知識を身につけていきたいと思います。

ときどき、健康の話をしていますと、コレステロールは「悪い物」と思っておられる方に出会います。おそらく、新聞かテレビのいい加減な解説者にだまされたのでしょう。

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キチンとしたデータをまず示したいと思います。

1990年にフィンランドのムルヅームが調査した例では、コレステロールを減らすと、心筋梗塞だけは少し減りますが、ガンになるのが43%も増え、自殺に至っては78%も増加しています。

つまりコレステロールを下げると、死亡率は7%も増加するのです。

同じようなデータがいくつもあります。

たとえば、1981年のハワイ日系人8000人の調査でもコレステロールが低いとガンが大きく増大しています。このデータはよくグラフで示されることがあります。

同じ傾向は、東京都老人総合研究所でも埼玉県に住んでおられる方3000名以上の10年間の調査でもハッキリしていて、コレステロールが低い人(男性90-170, 女性91-182)の人はガンが多いのです。

コレステロールが低いとガンや精神病になるのは間違いないので、コレステロールをむやみに減らすのはとても危険です。

また、ついでですが、リノール酸、エイコサペンタエン酸(EPAと略称し最近、健康に良いと言われている)、ドコサヘキサエン酸(DHAでこれも健康に良いとされている)などの「健康によい油」でも、多く採りすぎると障害がでます。

リノール酸を採りすぎると動脈硬化になり、DHAを採りすぎると白血球が少なくなります。

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あまりにも当たり前です。

コレステロールのほとんどは体内で合成されます。なぜコレステロールが体内で合成されるのかというと、「必要だから」に他なりません。

ここでは、なぜコレステロールが必要かについて難しいことは書きませんが、コレステロールが不足すると、人間の体内で作るのですから、「コレステロールは必要」なのです。

また、体に良いと言われるリノール酸やDHAも「必要以上に採ると有害である」というのもあまりにも当たり前です。

人間の体というのは、「食物や周囲環境から必要なものを採って」、不足しているものは自分の体で作って生きていくのが基本です。

本当は「昔通りの生活」をしていれば、それが「体に良い」ことであり、「体に良い食物」などは存在しないのです。

適度に美味しい物を食べ、適度に運動し、適度に休養する、そしてストレスの少ない生活をするのが一番です。

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健康の話をすると「医者でも無いのに」と言われますが、そこが現代の日本の「医療」の問題点です。

日本以外の国では救急車の中でも医師以外の人が治療をしますし、学校ではかなり高度な医学のことを教えます。

ところが、日本では医師会が「医療行為を独占する」という目的で、学校で医学を教えるのを禁止し、医師以外の人が医療行為をするのを抑えてきました。

医師会がそれほど悪いとは思っていませんが、病気やけがをした人を治療するのが医師の役割です。

だから、「医学の知識を持たせない」という教育は、国民を第一に考えると言うより、医師会の利害を大切にしてきたのも一面ですが、事実です。

また、医療というのは「病気やケガをした人を助ける」ということで、「健康な人をさらに健康にする」というのではありませんでした。

そして、今でも「医療」とは言えません。

「予防医学」というのがありますが、あくまでも「医学」で、しかも、「哲学」、「文学」、「社会学」などと調和しているわけではありません。

いわば私の専門の「工学」のようなものです。工学では人間がより快適に楽に生活できるように、あれこれと作り出しますが、それを社会が「実際に使うか」は別の問題です。

「便利だ」と言っても、他人に迷惑をかけるものや、ある地域では「環境」を破壊するものもありますので、工学は「ショーウィンドウに作品を飾るだけで、それを利用するかどうかは社会が決める」というスタンスです。

それと同じように、「予防医学」もいろいろご研究をするのですが、それを直接、社会に投入してはいけない、社会が選択するものです。

今回、解説した「コレステロール」も、予防医学をご研究されているある医学者がフライングしたもので、それに「無責任な解説者」が乗ったものと思います。

予防医学は医学者が行うのですが、「予防する」のは国民個人個人だからです。(引用終わり)







ダイアF

要素還元主義、あるいは「科学的実証」が重視される学問の世界では、ともすれば現実に起こっている出来事でさえ、実証不可能として認められない、といった訳の分からない結論を導きだす事さえある。

金子勝ブログ
「新興衰退国ニッポン:確実に日本が滅びています 」
リンク
より引用~

>実際、生物も経済も周期性をもって変化(たとえば景気循環)しますが、この周期的な波は決して同じ波を繰り返しているのではなく、波が少しずつ変わりながら、突然大きな転換(たとえば石油ショックや大恐慌)をもたらします。人間もガンや脳梗塞のような成人病が増えていきます。このように、水が沸点に達して水蒸気になったり、鉄の棒が折れたりするのと同じように、複雑で非線形的な変化こそが、科学が解明しなければならない先端的課題なのです。

ところが、新しい変化を見ようとすると、複雑な要因が絡んでおり、それが何なのか分かりにくいものです。しかも、データがそろわないので「科学的」には実証できません。

しかし、そんなに難しく考える必要はありません。生命体や社会を観察していると、いつも、「病気」や「衰退」のきっかけは小さな異常事態の発生から始まるものです。それを例外的だと見過ごし、「たいしたことはない」として放置すると、多重なフィードバックの仕組みが効かなくなって「病気」や「衰退」に陥ります。

ところが、厄介なのは、この異常事態の見逃しをエビデンス・サイエンス(実証科学)が正当化する場合があるという点です。これには計量経済学も含まれます。もちろん、計量経済学の有効性全体を否定するつもりはありませんが、その過信には大きな落とし穴があります。それは、非線形的変化の前兆として起きる異常事態をデータ的な裏づけのない「非科学的」な主張であるとして斥ける傾向を生むからです。そして「実証された」時には、すでに取り返しのつかない不可逆な事態に陥ってしまうのです。

システムを揺るがすようなリスクが頻発すると、こうした事態がしばしば引き起こされます。たとえば、1986年に起きたチェルノブイリ原発事故の後、通常100万人の子供に1人しか発症しないはずの小児甲状腺ガンが4000人以上の子供に発生したにもかかわらず、「証拠はない」とされ放置されました。ロシア政府もIEAE(国際原子力機関)も、自らを正当化するために、この実証科学の「成果」を利用しました。

原発事故の影響であることが認められたのは、事故から20年たった2005年のことでした。放射能に汚染された牧草を食べた牛のミルクを飲んだ乳幼児が、甲状腺ガンにかかったのです。食物連鎖によってリスクが広がってしまう事例は、水俣病でもあったことです。実証された時は、すべては後の祭りでした。

実は、確率論を利用した金融工学も同じ落とし穴にはまりました。低所得者向けの危ないサブプライム・ローンを証券化し、それをさらに切り刻んで他の証券と組み合わせて、リスクを薄めた債務担保証券(CDO)を作り出しました。実際にはバブルが崩壊すると、それが取り返しのつかない世界金融危機をもたらしてしまったのです。そう、工場排水を薄めて有機水銀の濃度を引き下げれば、問題は発生しないとした水俣病のケースとそっくりです。

格差問題が発生した初期でも、若い世代の雇用が破壊され始めていましたが、格差はあくまでも高齢化がもたらしたものだという主張が繰り返されました。若い世代での格差が証明された時は後の祭り。日本では新卒一括採用が一般的であるために、ロストジェネレーションは回復不能なほどの被害を被ってしまいました。

いまや大胆な発想の転換が必要とされています。

膨大化する情報大爆発のこの時代に、個人が世界の全てを知ることはできません。科学に対して謙虚な気持ちに立ち返ると、いきなり大所高所にたって世界同時多発的なリスクの時代を論じるのではなく、むしろ逆に、子供の甲状腺の腫れ物のような、異常事例へのほんの小さな「気づき」のようなものから出発する思考法が必要となります。

それは、特異で極端な現実、通常は統計学のはずれの5%として除外されてしまうような異常事例を重視することを意味します。20世紀的な統計理論の常識とは全く逆の発想です。この統計学のはずれの5%の窓から、実は全体を動かすメカニズムの姿を覗けるはずだと考えるのです。

そこでは通常の経済学のように、単純な因果連関に還元しないで、システムの背後にある多重な調節制御の仕組みを想定して、それがどこでどのような連鎖を通じて壊れているかを観察する努力が必要になってきます。

とはいえ、普通に考えれば、複雑なものは複雑に見えるだけです。しかし、心配することはありません。実は、非線形的な大変化が起きるときは、むしろ物事を動かしている本質的なものが見えてくるからです。多数の要素からとくに重要な要素を抜き出して、この定性的な大変化をとらえることを「縮約」と言います。日頃は気づかない社会を動かす「秘められた仕組み」が、「異常な事象」に引きずられて、我々の視野に入ってくるのです。

つまり私は、この非線形的変化を分析する「縮約」に注目して、多重な調節制御のメカニズムが壊れていく経済の病理現象がどのようにして生ずるのかを明らかにしたいのです。

残念ながら、経済学には、「どのようにして悪くなるのか」を分析することで、「どうしたらよくなるのか」を明らかにしていく病理学的アプローチはありません。経済学ではあらかじめ「均衡」に達する単純な因果連関とモデルがアプリオリに存在し、その「均衡」に戻すために、供給サイドだったら規制緩和、需要サイドだったら景気対策くらいしか処方箋が存在しません。そこからは、ガンや脳梗塞のような成人病の処方箋は出てこないのです。

経済学は「近代経済学」と「マルクス経済学」しかないという冷戦型オヤジ思考の人に、理解されないのは仕方ありません。

やっぱり私は「天の邪鬼」なんでしょうね。でも、時代遅れになった教科書を使って無理矢理考えるより、新しいことにチャレンジする方がずっと楽しいんです。たとえ失敗してもね。

~引用終わり~
近代システムの崩壊過程に突入した現在こそ、過去の常識が非常識となりうる可能性を大いに秘めており、大胆な発想の転換が必要とされている、という意見には共感できます。

事実認識の再構築と同時に、新しい認識の必要性がより高まっていく事は間違いないでしょう。






川井孝浩

『「CO2・25%削減」で日本人の年収は半減する』(武田邦彦/著)リンクより部分転載します。
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 ~前略~

●「CO2は出してもいい」はタブーになった

最近私があるテレビ番組で経験した話である。その時、私は、「C02は出してもかまわない。どんどん出した方がいい」と話した。

これまで書いたように「経済成長を続けるつもりならC02を出さざるを得ない」ということ、さらに「温暖化は心配するようなレベルではないこと」「温暖化の主原因がC02という説もあやしいこと」「仮に温暖化しても日本にとってはいいことのほうが多いこと」を踏まえた上での話である。

私の言葉を聞いた女性アナウンサーはこう言った。

「先生、そんなことを言ってもいいのですか? 世界中がC02の削減をしているときに」

この女性アナウンサーの意見は、おそらく日本人の多くの意見でもある。政府の主張であり、教育現場の常識でもあり、「小学生でも知っていること」らしい。

私はこう言った。

「あなたは世界中と言いますが、どこの国のことをさしているのでしょうか。アメリカ、中国はもちろん、カナダもメキシコも、南アメリカ各国も、アジアもアフリカも知らん顔ですよ。
ロシアは形の上では京都議定書に参加していますが、実質的な削減などしていません。東ヨーロッパや南ヨーロッパもそうです。
ドイツ、イギリスもEU加盟国として8%削減義務を負ったはずですが、97年までの削減が奏功して、実質的にはそれぞれ11%、5%の増加枠を確保したことになります。
C02の削減で苦労しているのは日本だけで、しかも『チームマイナス6%』などというキャンペーンをしながら、現実には14%も増えているのですよ」

幻想というのは恐ろしいものだと思う。

このような実態がはっきり存在しているにもかかわらず、世界中がC02削減の取り組みに一生懸命で成果が上がっている、とアタマから信じてしまっているのだ。

それをテレビ番組というマスメディアの世界にいる人が軽々しく口にするのである。事実報道をするはずのテレビ局のアナウンサーが「みんながやっている」と言うのだから、その洗脳ぶりは北朝鮮並みと言っていい。

「そんなことを言っていいのですか」というアナウンサーの言葉はさらに恐ろしい。

もはや「C02を出してもいい」は、日本の社会の「タブー」となっているのである。日本は言論の自由、表現の自由、学問の自由が憲法で保障された国家ではなかったのか。

●環境問題はメルヘンではない

「世界は、実はC02の削減に興味を持っていない」という事実もまた、日本人は直視できない。

すでに温暖化そのものや、温暖化被害の予測、温暖化の原因がC02であることの信憑性に、かなり疑問があることを知っていながら、不思議なことに「世界はC02削減に興味を持っていない」「日本もC02を削減する必要はない」と発言すると、まるで「地球の敵」「世界の敵」「トンデモ学説」の扱いになる。

環境問題は、メルヘンではない。

科学的に検証し、事実であることがはっきりすれば、本当に有効な対策をとればいい。それでも予測が間違うことはあるだろう。間違ったのなら、政策そのものを改めればよいことである。つまり、何事であれ、仮説があり、検証があり、修正が伴うということだ。

しかし、不思議なことに、こと環境問題となると「最悪のケース」が常に強調され、3000年後の海面上昇の数値である「海面の6メートル上昇」が、明日にも起こるかのように伝えられる。

しかも3000年後の話を10年後であるかのように伝えるのは、間違いであり、サギに等しいと言っても、「最悪のケースを考えて対策をとるぐらいのほうがいい」「象徴として扱っている」「もし悪いことが起こらなくても、環境に対する意識が高まったのだからそれでよかった」という理屈になる。

「最悪のことを考えて備えをし、何も起きなかった場合は、それでよかったと思えばいい」というのは、場合によっては正しい。例えば、「健康保険をかけたけれど病気にならなかった」というような場合だ。

しかし、健康保険料は何億円もするものではない。これは「安心料」の範囲内で払うものだ。しかも個人の優先順位で選択できる部類の話である。しかし、環境問題はこれとはまったく違う。

ガンになるよりずっと少ないリスク、それも遠い将来の予測もつかないような事態に対して、今生きている人間が経済成長を放棄するほどの犠牲を強いられていいかどうか、ということなのである。しかも、自分だけは犠牲になりたくないと言っても通用しない。

世界は温暖化対策にまったく冷たい、というのが現実なのである。屁理屈を言う人は多いだろう。EUは域内で調整して努力している、途上国はやりたくてもできないのだから責めてはいけないなどと言う人もいるが、それは全くの詭弁である。

 ~後略~
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猛獣王S

キリスト教の布教と教育とは切っても切れない深い繋がりがある。

例えば、17世紀初頭のアメリカ侵略には牧師が同行し、学校を組み込んだ教会が次々と造られていった。また、12世紀中頃からの大学の設立もローマ教皇が主導している。

この背景には、前稿で見たように、紀元前500年から、形骸化したとはいえ16世紀に至るまで、教会による支配が続いたからであり、当然その支配観念としてキリスト教思想を用いてきたためである。
(参考:『近代国家成立の歴史』まとめ4 近代国家とマスコミと市場は一体不可分の存在:リンク )

上記参考資料に掲載されている年表でも分かるように、11世紀後半から16世紀にかけては、交易や戦争により富を蓄積した金貸し商人達が教会をも牛耳る程の勢力を拡大し、それまでの権威である教会の力を利用し、国家をも支配するようになった。

実質の権力者となった金貸し達も国民支配のためには、積極的にキリスト教を利用していった。
しかし、15世紀中頃から17世紀中頃までの大航海時代における市場拡大戦略に対し、それまでの比較的厳格なカトリックでは、自由な私権追求には支障となることから、宗教改革によりプロテスタントを立上げ、(弱体化していた)ローマと縁を切る方向に向かった。
植民地支配→支配観念による洗脳を目的に、イエズス会などを通じ聖書重視の洗脳教育を布教→拡大して行った。

それを可能ならしめた背景には、キリスト教独特の現実否定の観念構造があり、それ故、その時々の権力者に都合のいいように解釈され「内面と外面の使い分け⇒面従腹背⇒自我の温床空間」(リンク )として、次々に彼らに都合の良い観念が生み出されていった。

一部引用します。
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ここに、非常に好都合な脱出口を提示してくれる者が現れたのである。イエスである。彼が提示した脱出口とは、戒律を厳守しなくてもいい、すなわち、内面と外面を使い分けてもいいとしたことと、神の国における救いを説いたことである。愛を説いたということは内面を重視したことであり、内面で心清らかに神を信じているなら、食物規定とか安息日とかの外面の戒律を必ずしも守らなくていいし、ローマ皇帝に税金を払っても、ローマの神々に頭を下げてもいいのである。イエスについてゆけば、ユダヤ人は、ローマ人の要求に外面的には従いながら、内面では敬虔な信者であることができるようになった。
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佐藤祥司

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