学者とマスコミが人類を破滅に導く

2015年03月

>ヘヤーに限らず共同体社会において広く見られる”同化教育”においては「不可能視」が生じ得ないが、「教える」「教えてもらう」ことを前提とした近代教育制度の下では、子どものころから「不可能視」が刻まれる<(237145

現代人の持つ「不可能視」は、かつて本源集団を解体され、私権の強制共認のもとで変えられない現実に直面し、架空観念として発生したもので、その頃から人類に深く刻印されてしまったと思われます。
かつ、その架空観念⇒欺瞞観念を現代に至るまで洗脳し続けることが、"観念教育"の本質なのでは、と思います。

もともと生物は外圧適応態であり、適応できなければ死ぬしかないのだから、「不可能視」など発生するはずがありません。
人類も同様で、本能ではどうしようもなかった為に共認機能によって共認充足を活力源とし、過酷な外圧に適応してきたわけです。
ですから、通常なら、どんなに失敗を繰り返しても、どうしたら実現できるか(真似できるようになるか)を考えるのみで、不可能視などに陥る暇もないはず。

近代~現代も、私権社会の中で、子供たちも成長し受験競争の過程に入るや否や共認充足しあう仲間がいなくなり、そんな中で大人の”染脳"も含めて「不可能視」がどんどん刷り込まれ、ことあるごとに発現するのかもしれません。

その意味で「不可能視」を持っている現代の人類は、非常に危機的な状況なのではと思います。







戌年

>河井は確かに「不世出の捜査検事」である。彼の調べを受けて自白しない被疑者はいなかった。しかし「法律家とはいえなかった。法律を解釈するにあたって、無意識で捜査官に有利に曲げてしまう傾向が見られた」と非常に辛辣な人物評をしている。(238868)

検察の暴走を許している背景には、法律そのものがあると感じる。
「法律を解釈するにあたって自らに有利に曲げてしまう」というのは法律家そのものではないか。
解釈次第でどうにでもなる。これが現実だ。
「法の精神」や「権利」など単なる架空観念にすぎない。
つまり、法律そのものも特権階級の身分維持のためのツールとなっていると認識したほうがよい。
そういう意味で、国家、そしてそれを制度化している法律、そしてそれを運営する特権階級の問題は一体として考えないと答えは出ない。三権分立という言葉に惑わされていると、問題を見誤る危険性がある。





匿名希望

日本人は権威に弱いと考えがちですが、実は権威に弱いのは虎の威をかる狼=特権階級だけで、大衆は昔から一貫して、特権階級自身に対してあまり過剰期待していない。このことを内田樹先生は2Uさんも引用されている日本辺境論の「水戸黄門」考で以下のように述べています。(一部引用者にて補記した)

>この物語のかんどころは「さきの副将軍」が共を二人連れてきただけのただのおおだなのご隠居にしかみえないという点にあります。その一見すると「ただの爺い」が狐たち(=助さん、角さんのこと)が「虎だ、虎だ」と言い立てると、「虎」のように見えてしまう。印籠なんていくらでもフェイクが作れるにも関わらず、ワルモノたちはなんの根拠もない名乗りを信じてしまいます。他方で、ドラマの前半に出てくる街場のカタギの人たちは「このじいさんはただのおおだなの隠居」であるという第1印象をたいてい最後まで手放しません。「根拠のない権威の名乗り」を頭から信じてしまうのは、ワルモノたちだけなのです。

>理由はおわかりですね。ワルモノたちは彼ら自身が「根拠のない権威の名乗り」によって現在の地位に達し、その役得を享受しているので、「あなたの権威の由来を挙証せよ」と他人にいうことができなくなっているのです。

>この水戸黄門のワルモノたちこそ、日本の知識人たちの主流である「舶来の権威」を笠に「無辜の民衆」たちを睥睨(へいげい)してきた「狐」たちの戯画に他ならないのです。

>「狼」が「時流に迎合して威張っているだけのバカ」だということが私たちには実はちゃんとわかっているのです。わかっていながら、どうしてもそれに対抗することができない。そういう心理的なロックがかかっているのです。でもそういう心理的なロックは「狼」自身をも呪縛しており、次に新たな「時流に迎合しただけの威張っているだけのバカ」が出現すると「狼」は対抗せずに、むざむざとその座を明け渡すことしか出来ない。そのようにして私たちの社会は権力者の交替を制度的に担保してきたのかもしれません。

>「水戸黄門」が日本人視聴者に長く選好されているのは、それがきわめて批評性の高い「日本的システムの下絵」であり「日本人と権力の関係についての戯画」だからです。

つまり、日本人は権力者たちが「時流に迎合して威張っているだけのバカ」と知っており、「権力者同士の争いもバカ同士の罵り合いに過ぎない」と知っている、ということです。

>暴走を続ける特権階級は、決められた路線(虎の思考)をただ突き進むのみ。一般の人はそのような狐の姿に期待を封鎖し、ものを考えることを放棄している、これは現代日本の姿だし、縄文時代以降一貫して日本人はそのスタンスで社会に適応してきた・・ともいえます。238781

と2Uさんが仰る通りですね。しかし、これは水戸黄門の時代、つまり江戸の平安の時代だからでしょう。戦国時代はこんな訳にはいきません。戦国時代は大衆からの秩序期待が大衆と特権階級をつないでいました。

>治水・法度・守護(灌漑・司法警察・国防)は、秩序の安定のために必要な課題である。戦国時代の農民が戦国大名に期待したのは、秩序の安定らしい。そして、それぞれの戦国大名も領国内を統治するために分国法(法度)を制定したことに見られるように、秩序化期待に応えようとしていた。その最たる者が江戸時代の幕藩体制という安定秩序を作り出した徳川家康である。

特権階級の世界と大衆共認の世界を繋いでいたもの(1)~武力支配時代の秩序期待 リンク より

そして、時代は幕末の激動を経て、富国強兵期待、そして戦後の豊かさ期待が立ち上がりました。しかし現在はゆたかさ期待という下からの期待圧力が消失した過渡的な時代にあります。だから、菅VS小沢という狼たちのいがみあい(そしていうまでもなくそれがロックフェラーVSロスチャイルドという虎同士のいがみあいでもある)も醒めてみているのでしょう。






山澤貴志

 暴走を重ねに重ねた特捜検察の密室が、遂に暴かれることになりました。その出自から正義の立ち居振る舞い、際どい捜査から立件の内実にまでメスが入れられて行きます。此処でも社会正義の役回りを自負して、朝日新聞社を尖兵とする報道機関がマッチポンプの演者で登場する。

 然し、国民が次に鉄槌を下すのは、(小泉劇場の演出から暴走を重ねる)現社会の第一権力・特権マスコミとなる。大本営報道以来の戦前から、誇張と捏造の元祖が報道機関であったが、今や世論調査の巧妙な数値を武器に人民裁判まで取り仕切る。 国民の悲惨なダメージも意に介さず、捏造シナリオをお気楽に描いて暴走する。
 問題が繰り返し露呈しても反省の欠片も見せない図々しさは、流石の特捜検察も及ばない。この報道実態は多くの国民が周知するところであり、暴走が止らない特権マスコミに鉄槌が下るのは時間の問題となった。
 
 上司・デスクが組み立てた気楽な机上のシナリオを鵜呑みの上で、現場の記者はアリバイ造りの取材に走るだけ、デスクに都合の良い情報が商品となって掲載される。この取材と報道のスタンスには客観性・中立性などは微塵もなく、あるのは世論誘導の特権意識と安直な快感だけである。
 
 特に朝日が相手の(捏造記事記載の)告訴事件は、検察官も裁判官も真正面から取り組むスタンスが取っ掛かりから欠落する。朝日には弱みでもあるのか滅法甘い、これが司法界の常識らしい。
 尻込みする弁護士に多額の費用を払って訴訟に持ち込んでも、滅多なことでは勝訴がありえず、煮え湯の調停案を飲み込まされるのが落ちである。





持国天

同様に「世論に流されやすい日本人」というのも瞬間風速的にそのような現象は起こりうるとしても、いつもそうだという訳でもない。確かにあのインフルエンザ騒動を思い出すと、何にも考えずに、マスコミ情報に流されているだけ、という面があることは確かである。しかし、こうした健康や安全・安心に関わる知的成熟は目覚しく、様々な食品偽装は困難な事態が生まれている。同様に、ワクチンや薬害についても大衆の学習能力は秀でたものがあり、インフルエンザが製薬会社の陰謀であるとしても、そうした陰謀にひっかかる大衆は少ない(実際、タミフルの問題性は一気に大衆の知るところとなった)。

政治問題でも同様で、大体、戦後は、一貫して左・右の多様な言論が成立していたし、自民党内も親中派、親米派と多様性を持っていた。確かに「小泉フィーバー」では世論は一色に塗りつぶされたが、今やいくら小沢バッシングをマスコミが続けても世論は5:5(ネットでは2:8)で小沢支持に転じている。既にマスコミの世論支配に対する免疫ができつつあるといってもいい。

結局、日本人の潜在思念に合致しない「観念や制度」は流産するしかないのである。それは日本の歴史が教えてくれる事実である。日本は中国流の歴史書も易姓革命思想も科挙制度も、取り入れなかった。近代制度、近代思想にしても一夫一婦制度は有名無実だし、男女同権論も根付いていない。株式会社制度も労働組合も日本的経営に変換されてきた。

「自虐的な日本人」にしても、一面的な評価だろう。歴史的には、聖徳太子の「対等外交」が示しているように、決して「自虐的」ではない。戦後、GHQ支配による歪があることは確かだが、今やむしろ「自虐外交はよくない」という右翼的言論の方が支配的である。問題はむしろ、「自虐はよくない」「反省が必要」といった表層的な議論に終始し、戦略的な思考が欠けているという点であろう。しかしこれは「外務官僚の無能」「マスコミによってつくられた言論」という問題性の方が大きく、日本の企業群はもっとしたたかに現実を生き抜こうとしている。

私たちは日本人の潜在思念の確かさにもっと信頼を置いていい。日本人は外圧に弱く、世論に流されやすく、そして自虐的である・・・と悲観するよりも、日本人の持つ柔軟性とそれを生み出している潜在思念の確かさを肯定視し、期待し、交信していくことが重要なのではないだろうか?

大局的にみれば、大衆はもはや市場原理主義者、官僚絶対主義者を支持していない。菅政権といえども口先では「反小泉、竹中」「脱官僚」を掲げるしかない状況にある。

確かに、「大衆と特権階級の断層」は問題ではあるが、既に「脱市場原理主義」「脱官僚主義」というみんな期待は顕在化しているのだから、あとはこの期待に応える本物の政治勢力の台頭を待つのみだともいえるのではないだろうか。






山澤貴志

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