>現実を否定視しない者ほど既成観念の否定は容易であり、現実を否定視しない者ほど、現実の可能性に立脚し本当に現実を動かしている。

不全派の僕がいうのもなんだが、不全発の課題意識は確かに展望がない。何故なら不全を患った人々はお互いの意見に否定的だからだ。(左派運動の分裂の歴史を見よ)万が一にも連帯があるとしてそれは傷のなめあいか、ドーパミン支配の熱病がいいところである。(きっとサルの時代から全共闘までずっとそうだろう)

以前、課題意識と問題意識という話を仲間としたことがあった。現代の不全は、根底的であっていまさら近代思想にもとづく社会変革の課題意識でどうこうしようと思ってもどうしようもない。既成観念に支配された課題意識ではなくもっと根底的な問題意識の地平を持つ人々がいるのではないか?

しかし、今思えば問題意識という深い欠乏を抱えながら日常を生きることは想像を遥かに越えた苦行であろう。勢至翁がいうように、なんとなく既成観念を捨象しただけではマスコミ=神官階級による新しい衣装を着た流行観念(表面は新しくコーティングされているが実は古い観念の焼き直し)によっていつのまにか旧観念の支配下に引き戻されてしまうからだ。‘80年浅田彰(それはつまるところ消費礼賛=個人主義であった)’90年宮台真二(それはつまるところ自己決定性という近代自我観念の追い詰められた終末的言語だった)…これらの中途半端な近代批判を超えた倒錯観念の全否定、そして構造認識に対する需要は潜在的には大きいのではないか?

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しかし、同時にネットでの発信者はその大多数が良くも悪くも明確な課題意識の表現者であって、ということは全否定に向かわず、ある種の古い観念に収束すればこそ発信ができているということも事実だと思う。

従って今回の「不全発の課題意識」から「可能性発の必要意識」へという運動方針は、ネット社会の実践的な分析にもとづく思想分析の結果からいえば必然ではある。が、しかし/だからこそ「可能性発の必要意識」は顕在化しているのか、否か、潜在意識であるならば如何にして掘り起こしていくのか、という実践問題を考える必要があるだろう。

そして未だその多数は潜在的だとしても、その萌芽は先端的にあるはずであってその萌芽形態の探索がしばらくは課題ではないだろうか?

山澤貴志