四方勢至さんの次の言葉は、私にとってとても、とても重たい言葉です。それは、現実にいいも悪いも、私が子供に「ものを教える」プロだからかもしれません。

>人々の答え欠乏は、答え=パラダイム転換の言葉が与えられて初めて顕在化する。まずは、それ(答え)に気付くこと。それさえ気付けば(=理解すれば)、後は自分で考えてゆけるし、考えるにつれてより具体的な答え(=個々の構造認識)が欲しくなる。<(22204、四方勢至さん)

「答えが与えられて初めて答え欠乏は顕在化する」

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私がプロの教師だからといって、「答え」が入試問題の単純なる「解答」ということを指して言うつもりはありませんし、社会パラダイムの転換の「答え」と子供たちが取り組む問題の「答え」など比べようもありません。が、数学指導のプロが目指すのは、子供たちがいかなる問題(たかが入試問題なのかもしれませんが)にぶつかっても、しっかり短時間に「解答」できるようにするというのが実践的な目標課題になっているわけです。

(*受験がどうのこうのとか、学校や塾の教育がナットランというのは、少し横においていただいて、ここでは純粋に「問題を解く」、あるいは難度を上げれば「問題を作る」という子供たちの課題をどう突破させるのか、という点のみで少しお付き合いください)

一番下手な指導は個々の問題の解説であり、次のレベルの指導はその問題を突破する解法を伝授することであり、最終レベルは子供たちがあらゆる問題を自分で解けるようにすることです。

講師の指導時間も子供の学習時間も限界がありますから、結局はプロが行うのはそれが数学という限定的な専門領域であったとしても、子供たちの認識力を高めること、につきます。答え、つまり「状況認識」から「構造認識」の力をつけることであると私は考えています。(厳密には認識の中身ではなく、その認識機能を発展させる訓練を行っているということでしょうが)。
構造化することができれば後は容易にさまざまな問題に対して解答を導くことが可能になるからです。子供たちがこの構造化できた段階を「了解知(本当にわかる「ああ、そうか」という認識)」と呼んでいます。

いろいろな問題現象から、気づかせ、発見させる、さまざまな視点から考えさせることがまず、指導上の最初のネックになります。簡単な問題(壁)では、子供たち自身が「解答」を出してしますから、もっと知りたい・ホントのことが知りたいという「欠乏」は、そのままでは生じません。といって、難しすぎる問題を前にすると、今の子供たちは「捨象」して他のことをやるか、手が止まったまま(思考停止)になります。そこには、講師の働きかけが必要になります。

「自分で考えなさい」という指導が一番ダメな指導…。子供たちに考えさせる(ここで考えるというのは「答え欠乏」→探索というレベルですが)ために、「ヒント」を用意したり、「発問」をしたり、「子供仲間の力(共認力」を利用したり、あるいは講師が違う解きかたを示したり…。ここが腕の見せ所、なのですがどうも最近はうまくいかないケースが増えたように思います。どうも、子供たちは一体何をどう答えればよいのかが、全くわかってない(知らない)…。この点に関するところが先ほどの

「答えが与えられて初めて答え欠乏が顕在化する」

講師が、問題(あるいは問題群)の構造化を子供に示す(答えを提示する)ことができて初めて、子供たちも「本当のところ」を知りたいという欠乏が生まれてくるというのが、最近強く実感していることです。

構造認識(答え)を教えてもらって初めて、その必要性欠乏が生まれるし、問題に対しても深く追求するようになる。この点は、本当に狭い範囲での経験からも明らかなように思います。(ただし、狭いといっても子供の認識の発達段階論として、とても重要だと思いますが)

吉国幹雄