「市民」という言葉、「市民革命」という言葉を私は世界史上で習ったと思います。そこでこの言葉について少し調べてみました。以下は引用です。

>みなさんは「ピューリタン革命」や「アメリカ独立戦争」「フランス革命」について、中学や高校で習ったときのことを覚えているでしょうか。中学や高校の教科書ではこれらを「市民革命」として説明しています。そして、中学や高校のほとんどの社会科教員は、「市民革命を通じて、民主的で自由・平等な社会の第一歩が踏み出されたのである」と教壇で熱っぽく語ってきたのです。

>それぞれの「革命」の中心となった人々は、イギリスでは「地主ジェントルマン」、アメリカでは「植民地エリート」、フランスでは「ブルジョワ化した貴族」たちであり、それらの人々を「市民」という言葉ではくくれないのです。

にほんブログ村 政治ブログ 世直し・社会変革へ
>フランス革命中、革命派の男たちの間では、お互いを呼び合うのにそれまでの“monsieur(ムッシュー)”をやめて、“同士”という意味で“citoyen(シトワイアン=英語のcitizenにあたる)”と呼び合っていました。もちろんロベスピエール(革命末期のジャコバン独裁を指導)もこれを使っていたのですが、倒される直前に彼は“monsieur(ムッシュー)”と言ったと伝えられています。理想を求め続けたロベスピエールは、死を前にした時、理念的に使っていたことばではなく、日常にまみれたことばを口走ったのです。

>「市民」ということばがもつロマンティックな力、その力は「市民」ということばの定義がきわめて曖昧であるにもかかわらず、戦後日本の状況を批判的にみる者たちを勇気づけてきました。そして「革命」という過激なことばと合体して、ひとつの幻想を歴史の世界にみたのかも知れません。(以上引用 水田博之『世界史への招待』より抜粋)

私たちは、「市民」などという言葉を使って、現実を隠したり偽ったりしたりしてはならないのだと思います。そのような言葉に、そのような偽りを告げる人々に(国会議員がさも「国民の代表」という顔をしているように)みなの大事な未来を託したりしてはならない。

だってもう現実はみなで築き上げるもの。誰かに託すものではないのですから。



お百姓さん