昔「高踏主義」を標榜する知識人の一群がいた。巷=俗世の欲望の渦巻きから身を引いて観念的探索(感応観念を紡ぐ)に埋没する人々である。
しかしそれは彼らのみならず、知識人一般に広く見られ、かつそれが知識人のあり方として正しい、とされていた。
そして一昔前から現在にかけて、新聞の売り物は中立・不偏不党であった(実際にそうであったかはここでは問わない)。社会に対する監視人=チェックマンとしての自己規定=基本姿勢である。
それらによって、社会に対して観察者=傍観者であることがいわば正当化されていた。それどころか、それが一歩高みに身を置いた高尚な姿勢であるかのようにもてはやされていた時代であった。

しかし、この間の四方氏の投稿を初めとするこの掲示板の流れは、それらの姿勢が根本的誤りであり、過去の遺物でしかないものであることを明らかにしつつある。

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傍観者であることが一定の正統性を持っていたかのように思われたのは、現実とは私権闘争の場であり、およそ社会を考えるものや、公的な立場に携わるものは、その私権闘争や私権対立から一歩外に身を置くという仮装が必要であったからであろう。(ただし現実には、傍観者はせいぜい現状を追認することしか出来ない。)
しかし現在、私権闘争は衰弱し、現実は既に同類圧力にその姿を変えつつある。しかもその圧力源=活力源は「あくまでも人々の期待に対する応望が主目的であって、闘争が主目的なのではない。」(四方氏 31505
>しかも、主体=対象である以上、人々の意識とは、自分の意識に他ならない。つまり、自分自身の意識が、『現実』=同類圧力を形成していることになる。もっと簡単に云えば、現実とは自分自身に他ならない。(20355 )

これらのことは次のことを意味する。即ち人々の意識の坩堝の中に身を置き、自ら生きる場を形成していく現実的な基盤が既に生まれているということ。そしてその中で傍観者とは、旧いスタンスで頭を染め上げられたまま人々の期待を遮断した人であり、つまりは現実からは無用・無縁の人であることを。

かつての知識人のスタンスを真似た、人々の一億総評論家化。そして現在なお数多く見られる「何事も先ず疑ってかかる」認識スタンス。かつて善とされたこれらの高見に立った姿勢=傍観者的姿勢も、現実の変化とともに、その欺瞞性自身に断が下されるのだろう。

北村浩司