岩井さんのグランドセオリーに関する一連の投稿。興味深く読ませていただきました。

グランドセオリーに関する議論がなされず、タコツボ化した専門分野の確立へ向かった背景を考えると、「自我の確立」ということが、人類の確かな歴史的考察も議論もなされないままに暗黙のうちに良しとされ、重要なものとして人々の心の中に深く根付いてしまっていることが、根本的な原因のように思います。

自我の確立」そしてそこから派生した「相手の尊重」という意識は、まさにタコツボ化が進行した元凶をなすもののように思います。現状の中では、より細分化された重箱の隅をつつくような場を築くことによって、ついに自我の確立を見出すことが可能であり、自分の専門領域に引きこもってしまうことや、お互いに不干渉を決め込んでしまう状況も、「自我の確立」と「相手の尊重」が絶対視された結果ではないでしょうか。

自我」に縛られた状況では、「統合」とは正反対の方向に進むことでしか充足を得ることができず、その結果が自らの専門領域を囲い込み、他の専門分野に干渉しないという現在の状況では、グランドセオリーへの視点が薄れていくのも当然のように思います。

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近代において、マルクス主義や構造主義などのグランドセオリーに似たものがインテリの間でもてはやされたのも、当時においては専門分化がまだ拡散しておらず、自我の確立が可能な領域がグランドセオリーからまだそれほど遠ざかっていない状況だったからではないでしょうか。

今、多くの人がグランドセオリーの必要性と重要性を感じていると思います。自我を当然のように容認した結果が現在のタコツボ化した状況であるならば、これからのグランドセオリーの構築のためには当然、自我の否定が考えられるべきであり、共認が自我を封じ込める可能性を有しているならば、グランドセオリーの構築は、当然みなの手で行われなければいけないと思います。同時に、グランドセオリーをみんなで築き、共認する意識をもつことで、自我によって拡散したタコツボ型の専門領域も、「統合」へと収束していくのではないでしょうか。
 


KOU