しかし、それらだけではマスコミが現在のような正統性を得るには至らない。正当性を得るためにはもう一つの条件が必要であった。それが支配(統合)共認の形成機関としての役割である。市場拡大によって人々は私権に侵され、バラバラの個人に解体された。しかし個に解体されたとしても、共認の必要は絶対的であり、とりわけ社会秩序の形成上、統合共認とその為の統合観念は絶対的に必要とされた。

マスコミのもう一つの流れは、明治初期に相次いで設立された東京日日新聞(現在の毎日新聞)郵便報知新聞(現在の報知新聞)朝日新聞等に始まる政論紙としての系譜である。それが明治20年代に入ると文明開化=市場拡大ともに広告の掲載や連載小説の掲載に力を入れ始め、大衆化路線を歩みだす。そして、快美刺激と芸能に相乗りする形で、同時に当時盛り上がりつつあった「自由民権運動の拡大キャンペーン」に取り組む。近代思想の拡販である。そして、その後大正デモクラシーを経て、大戦を挟み戦後近代思想が支配的になるにつれ、彼らは社会共認形成の中核機関となっていく。そして、その結果彼らの立場は「公正中立・不偏不党」に収斂していく。
にほんブログ村 政治ブログ 世直し・社会変革へ
これが何を意味するか。まず公正中立・不偏不党であるということは、もしそれが忠実に実行されれば、あらゆる潮流に対して均等に距離をおくということになる。つまりそれは100%傍観者の立場を取ることを意味する。
そればかりではない。近代思想が一旦支配観念として確立した以上、「公正中立」であり「不偏不党」であることは、彼らの言説は常に支配観念の枠にあり、それに極めて忠実であることを意味する。つまり支配観念の枠を越えるものごとの捉え方(それは最初は常に少数派の異端として登場する)は異端で在るが故に「偏向」として抹殺されることになる。
つまりマスコミとは、公正中立を装った価値の裁断者なのである(実際彼らが『悪』と裁断することで社会的に抹殺されたものは数知れない)。

マスコミは現実の脚色者として基盤を獲得し、人々の眼を現実から反らせつづけてきた。そして脚色者として事件を作り、更に無効となった旧観念(価値観念)に則ってそれを自ら裁断する、そのような巧みな脚色と演出で人々に誤った価値観念を植えつづけてきた。(まさにマッチポンプとはこのことである)しかもその中味は現実否定に貫かれた倒錯充足の観念群である。(20354「観念パラダイムの逆転2」)マスコミはかかる手口で人々を無力な傍観者に追いやってきたのである。

しかし代償観念に過ぎない旧観念は既に力を失い、彼らのもともとの力の基盤である代償充足の欠乏も急速に衰退しつつある。実は今や彼らには力の基盤はない。この間の節操のない日替わりの主役交代(小泉、鈴木宗雄から田中真紀子にいたるまで)は、彼らの三文脚本家としての馬脚を露呈している。

だとすれば、後は彼らの流す言説(脚色と演出)が全て今や無効であり、かつ誤りである、と明確に意識的に断ずること、これこそが既に力を失いつつある支配観念と代償充足の檻から抜け出し、当事者として自分自身の目で状況を捉えてゆく第一歩になる。

北村浩司