私権時代であれ、どのような集団であれ、成員がそれぞれバラバラでは存在することなどできない。それが私権時代固有のカタワの目標であれ、共認なしには集団も社会も形成できない。(石野さん49195

確かに集団であれ、社会課題であれ、目前にある問題を正面から見据えそれを解決する為に皆で頭を使う、つまり当事者としてこの様な闘争過程に関わるのであれば、およそ「人それぞれ」などと言う言葉は登場する余地がありません。そのような場面であれば目の前の状況をどう捉え、その原因を追求し、突破口を考えると言う方向に思考ベクトルが働く筈で、そこではどれだけ事実に肉薄できたか、より実現確率が高い答えに迫れたかだけが問題となり、個々の意見は実現可能性というベクトル上で淘汰精錬され、ある方向へ収斂していきます。
その意味で「人それぞれ」は現実=闘争過程を捨象した、「傍観者」の観念であることは間違いの無い事実だ、と私も思います。
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その上でこの観念が、力を失ったにもかかわらず未だに広くはびこりつづけているのには、一つ根拠があると思います。それは闘争からの抜け道である私的取引関係です。(参照29834「闘争(能力)適応と共生(取引)適応」33179「お金は、現実の必要度を測るモノサシ 」四方氏)
市場では、特定の売り手と買い手だけが利害が合致すればそれで取引が成立します。また市場社会での私的人間関係(友人・恋人etc.)は二人だけの思惑や価値観が合致しさえすれば、それで関係は成立します。つまりその他の人間は何を考えていようが無関係。だからあとは「人それぞれ」でもいいのです。

この私的取引のパラダイムが「新しい認識を紡いでいく場」「集団を出て社会の当事者となろうとする人達の場」=認識交流会に持ち込まれるとその場が混乱し旧パラダイム的思考に転落しかねません。

例えば認識交流会の場でもよく、「人それぞれ」と並んで、(自分の意見を述べた後で)「あなたはどう思いますか?」という質問をされる方がいます。これも私的取引という関係パラダイムを前提としての言葉。特定の相手(=あなた)がどう考えているかだけが問題となるからです。
普遍的な認識を求めるテーマの中でさえ、それとは対極の、この様な場違いな言葉が出てくるのも、おそらく既存の交流会が自分と考え方の合った人を探す=私的取引関係を作ることを目的とした場であることが、その一因となっていると思われます。

既存の交流会と一線を画す私達の認識交流会に求められるのは、認識パラダイムの逆転と同時に、関係パラダイムの逆転。旧パラダイムを一掃するためにも、当事者としてみんな期待を対象化し、答えに向けて徹底した探求思考の姿勢を貫徹すること(富田さん49170)がきわめて重要だと思います。

北村浩司