「10代しゃべり場」を久しぶりに見ました。

18歳の女性が「もやもやはどうすればいいのか」のようなテーマで話していたように記憶しています。その中で彼女がもやもやを説明するために「ストレス」と「もやもや」を比較していた。
彼女なりに考えたのが以下のような説明でした。
「ストレス」は外圧が加わって肉体や精神が痛むもの、つまり原因が比較的明確。
「もやもや」は明確な原因がわからないが自分の中に溜まった何かが耐え切れなくなる違和感。ストレスと違って原因がわからない分対処のしようがない。溜まった結果、切れたり自殺の衝動に駆られたりする。


にほんブログ村 政治ブログ 世直し・社会変革へ
~もやもやの実態は何かで議論が始まった。
彼女が言うには親や大人が自分に期待するありようと自分がそうありたい、あるべきという世界との間のギャップがそうさせるという。・・・この言葉どおり聞けばなんだ、いつの時代にもあることじゃないと聞き逃しそうなのだが、彼女の感じているもやもやとはそんな言葉では説明できないような得体のしれないもののように感じた。
一言で言えば大人や親が提示する旧い私権価値と自分の潜在思念でとらえている新しい可能性のずれのようなものが生起しているのではないかと思う。そうであれば確かに単純なストレスではない。
場と主体のズレ(実現論4_4_01)は若年世代の多感な時期こそ最も肉体を直撃しているのではないだろうか?その生の声を始めて聞いたように思った。
彼女はこうも語っていた。大きな社会を対象化できて自分がその社会の一部分に位置しているという実感が伴うことができればもやもやから脱出できるように思うと。
また、この番組でもやもやの話を取り上げてほしかったのは同じように思っている視聴者に何らかのメッセージを与えることができたらと思ったという。(もやもやの実態=社会不全はのど元まで出てきていた)

彼女の潜在思念からしぼりだす言葉はしゃべり場では同じ10代の子ども達同士では解り合えず、議論の中で平易な私権価値にずりおちていった。がっかりした。
「もやもやは誰にでも有る。考え方を変えればいいんだ」、とか「誰にもそれは理解できない事、自分なりにつきあっていくしかない」とか。「もやもやというマイナスも裏返せば向上心だ」とか。

しかしその中で一人の男性からいい意見が出てきた。
もやもやは一人で考えているからだ。それを人と共有することを考えてみてはどうだろうか?もやもやを人に話し、相手からも聞く事で「もやもや」でなく「なんとかしようという」前向きな課題になるように思う。~はっきり記憶していないが、自分に向かわず人を求めていく事、協働が鍵というような内容だったと思う。議論が動くと思った。

しかしゲストで来ていた作家の高橋源一郎が介入してきて、その意見をずれた答えとして批判した上で、もやもやを個人の問題として結論づけた。もやもやとはとはうまく付き合いなさい。もやもやがあるから活力が生まれる。自分の中のもやもやは創造の源。年を経るに連れもやもやは減っていく。若いうちのもやもやは素晴らしいこと。といった内容。
いかにも旧観念でうまくまとめたが彼女がその答えで納得できたとは思えない。

もやもやの実態(統合不全)になんら触れられることなく番組は終わった。
田野健