ナーファシズムの中核に権利という観念があるという指摘は、私もその通りだと思います。この「権利」(人権)という観念は男女同権にせよ、嫌煙権にせよ日照権等にせよ、全て己の利害を、相手や社会に対して要求する際の根拠概念として用いられています。もちろん現在国家の最大の支出項目である福祉も基本的人権が論拠となっています。しかもその要求の中味は概ね「いい生活」や「身分獲得」の私権がらみです。つまり私権の追求と保証を正当化し、美化した観念といえます。

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ところでこの「権利」なる観念はどこから生まれたのでしょうか?この観念が生まれたのはロック・ミル・ルソー等の近代思想家が起源ですが、いずれも国家による、私有権と生存の保証を核とした主張です。そしてその権利の根拠となっているのが「天賦人権説」。つまり人権は生まれながらに与えられているもの、天が与えたものという訳です。要するに自然科学上や社会科学上の事実に基ずく根拠は一切ありません。
全く現実の根拠が無いにもかかわらずそれが作られた理由は、おそらく近代になって万人に市場という私権追求の可能性が開かれ、その主体を正当化する必要性にあったのだと思われます。つまりこの権利という観念は私権主体として、社会や相手に対して批判や要求を行う上で、そういった要求を正当化する観念として捏造されたものと言えると思います。

>しかし、剥き出しの自我では人々に共認されない。社会に要求する以上、それがあたかも本源的要求であるかの様に見せかけなければならない。そこで、際限なく肥大してゆく反社会的な自我やそれに基づく要求を正当化する為に、もっともらしく幻想観念化した権利という欺瞞観念を捏造した。権利とは、集団捨象の自我→要求をもっともらしく見せかける為の架空観念に過ぎない。だから、近代思想が掲げる権利は、どれを取っても「この権利は絶対である」という根拠など全く何も無いのであって、あるのは己の自我私権を貫徹する為の一方的な要求だけである。だからこそ、近代思想は権利だけを絶対的なものとして主張し、義務を欠落させているのである。(実現論2_8_05

貧困が消滅し私権圧力が衰弱すれば、普通の人々は取り立てて私権上の不平不満もなくなり、要求には収束しなくなる。つまり普通の人はモノを言わなくなる。だからこそ逆に一部の否定性や被害者意識の強い人々の声だけがまかり通るようになっていく。それがいかに殆どの人の実感からずれていたとしても、権利という旧観念を社会統合上の観念として共認している限り、反論も出来ないので次々と法制化され強制されていく。同じ旧観念を飯のタネとしているマスコミもそれを後押しする。
旧観念が「自由」というお題目とは裏腹に、一握りの人々によって、規制だらけのファッショ社会を作り上げていくからくりはここにあると思う。

北斗七星☆