「セクハラ」にしろ、「嫌煙」にしろ、それが法律化されてしまった後になって「そうなったんや。」とはじめて知ることが多い。知らないうちにというより、法律化するほどのことかと感じ、そして関心はない。

>最も多数派を占める健全な人たちは、何も主張しないことをいいことに、まったく本意ではないことの片棒を担がされ、結果的には、新しくできた法律を強要されては、社会に対する違和感を募らせていることになります。

最も多数派を占める健全な人たちが『何も主張しない』『関心がない』ということ自体、みんなの答え(意見)なのであって、それは『何となく・・・』という本源で感じている一番大切なモノのはずである。しかし、『何も主張しない』『関心がない』ということは意見無(ゼロ)とされ、ほとんどの人が関心のない「~が嫌だ。」は意見有とされる。
そして、最も多数派を占める健全な人たちにとって関心のない問題を解決することが法律であり、だからこそ、法律なんてと無関心のままにしていたし、それほど意味ないものとしているのだろう。

>でも知らないうちにそれが法律にまでなってて、強制力をもってしまった結果、みんなそれに怯えたり、それで一生を台無しにされてしまう人だっている。

しかし、西さんも言うように、関心が薄いはずの問題も法律になってしまうと、それに怯えたり、それで一生を台無しにされてしまう人だっている。何だかおかしいと感じているものに振り回されるのはやっぱりおかしい。『何も主張しない』『関心がない』ということ自体が意見有なんだ変えていかなくてはならないんだと思う。でも、『何も主張しない』『関心がない』では言葉としては弱いのだろう。
それが、『万人の共認』(土山さん)という言葉に昇華すれば、強くなり、真っ当な評価軸(統合軸)になる。そうすることが、本源で感じている一番大切なモノを意見有として捉えられるようになっていくに違いない。「○○は万人の共認だ。」としていくこと(言葉にしていくこと)が本当に必要なことなんだと思います。

倉橋利弘 
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