>学校の勉強で”答え”といえば、その先は何も無い(それで終わりの)もののようにイメージされます。
交流会でも「答えは一つである必要があるのか?」という質問が良く出ます。おそらくそのような疑問をもたれる方は、多分従来の「思想」や価値観念をイメージしておられるのではないか?と思います。この捉え方事態が人々の共認によって形成される社会の実現の阻害物となるものです。いわゆる「答えなど存在しない」だから「価値観は人それぞれ」等。(実はこれ自体が「個人主義思想」の変種なのですが・・)

思想や価値観念はこの統合板でも何人もの方が指摘されているように、私権の強制圧力や序列統合に対する変革不可能視(実現不可能視)に基づいて作られたものです。醜い私権の現実を否定して、人間のあるべき姿や目標を観念化したものです。もしくは単に現実の都合の良い部分を一面的に美化したものです。つまり頭の中をプラスで充足させるためにのみ存在するものです。

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しかもその目的からみれば、その観念自体が最終解答の位置を占めます。かつ、それらは現実のマイナスに対してそれを否定して単に「理想状態」を説いたものであるが故に、対象とすべき現実が変化しても、相変わらずそれらの価値観念から見たマイナス(都合の悪い部分)を否定しあげつらうばかりで、その観念内容自体が本当に正しいのかどうか問われる事がありません。つまり極めて硬直的です。価値観念はそれが正しいという現実の根拠が一切無いが故に、最終的には頭の中にとって(自分にとって)都合がいいかどうかだけが根拠となります。だからそれを決着付けるのは結局「力」しかないという事に必然的に帰結します。(英米とイラクの戦争はもとより、日本においても明治以降いわゆる自由主義と反自由主義との対立が一貫して存在したが、それ自体で上手く統合できたためしがありません)。つまり頭の中の慰みでしかないが故に、しかも統合するためには結局力しかないが故に、旧思想的な「答え」に対する一種の拒絶感が生まれるのでしょう。

今求められている観念は現実の問題に対してそれを切開し、原因分析を行い、実現可能な突破口を導く為の観念です。つまり事実に立脚し現実の根拠を起点に、問題を分析し、社会や人間の意識の基底構造とそれが変化していくダイナミズムを解明した構造認識であり歴史法則の認識です。つまり価値観念ではなく「事実観念」です。その意味で自然科学における諸概念や諸法則に対応するものといっていいと思います。それは自然科学がそうであるように、基底的な諸認識は共通でありながら、状況の変化(新たな事実の発見や状況変化に伴う突破すべき問題の変化や主体側の条件等)に応じて無限に組替えられ場面に合わせて応用され、発展していくものです。(実際そのようにして自然科学は塗り重ねられ発展してきました)

それだけではありません、我々は現在を生きるために問題を対象化するのであり、その意味で求める答えは次代に向けて可能性を探るためのものです。つまり蓄積された認識を土台に(基底条件として)次代に向けて踏み出すためのものです。だからこそそこでは、狭い意味の認識だけではなく、新認識によって解放される潜在思念=可能性への直観も最先端でフル動員されます。そしてそれによって必要な認識が付け加えられ、組替えられていきます。その意味で、実現論で触れられている「共認機能」や「収束と統合」の概念装置やそれを活用して生まれた新認識は、それを土台にして答えを導くための道具であり、文字通り「可能性への起点」(馬場さん)であるといえるのだと思います。

北村浩司