最近、偶然にも高校生たちの日常の両極に接する機会がありました。その片方は、言うまでもなく『なんでや勉強店』や『なんでや露店』の光景で、「何でだろう?」の『答え』に目をキラキラさせて頷き、「なぜ親と話が合わないのか今日初めてわかった」と言って満足げに帰っていく姿ですが、もう片方は、机に突っ伏して、教師の話を聞いているのかいないのかも判然としないような、いかにも疲れきった姿が無残に広がる授業風景です。

 後者のような様子を目にしたのは、10日ほど前、ある有名私立高校のお招きで‘社会人講師’として話をしてきたときのことです。行く前から講義形式よりは車座に座ってやりとりする方が面白いのはわかっていたのですが、学校側の意識からすると私はあくまで‘講師’であり、そのための教室と時間と生徒数(35名程度)が割り当てられていました。

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 ところが、ここで第一の発見がありました。机に突っ伏して私とは反対側に顔を背けている少年が最前列にいたのですが、彼は一見話を聞くことを拒絶しているようなその態度のまま、実は話をチャンと聞いていて、関心のあるところでは手を挙げて質問をしてくるのです。そして私の回答に納得したらしい表情を見せると、すぐまた元の‘姿勢’に戻るのです。

 当日は、ちょうどその高校から委託を受けていた仕事の真っ最中で、その仕事現場がたまたま学校内にあって、そちらの見学に時間の半分を充てることにしたのですが、今度はそこで第二の発見がありました。教室を出て仕事現場に案内した途端、彼らの背筋はシャンと伸び、10人を遥かに超える生徒が何の衒いもなく、あれこれ将来の職業選択のことなどを聞いてくるのです。教室を出さえすれば異世代との会話が成立すると言わんばかりに・・・。

 仰っているように、今時の高校生たちは、旧制度と旧観念にがんじがらめにされて、考えることも行動することもできないまま、それが逆に机にまっすぐ座れないほど心身を疲弊させているのは事実だと思いますが、彼らの教室での態度は、単に疲れているからだけではなく、旧い集団と旧世代の喉元に剣先を突きつけているかのような、一昔前のデモにも似た‘脱集団’の実践行動だと感じられます。しかし悲しいかな、彼らにはヘタリ込む以外にやることが発見できずにいるのかもしれません。

 ただ、今の高校生たちは、すでに多数派が「何でだろう?」に目を輝かす一方で、学校に戻れば、やはり多数派が彼らなりに精一杯の‘脱集団’的行動を日々繰り返しているように見えます。しかも「多数派・・・」という点に着目すると、たった3~4年の違いしかない大学生の世代から、さらに一歩も二歩も先を行っているという感を強くします。

 目の前で突っ伏されて、腹が立つどころか、逆に時代の流れの驚くべきスピードを実感させられるような最先端の光景を前に、「最早大学生でさえ旧い」と妙に感心させられた貴重な体験でした。
 
土山惣一郎