>霊長類史6千万年の全史を覆す様な場(パラダイム)の大転換

収束不全という概念について、仲間と考える機会があった。
どうやら、それは決定的に新しい不全らしく、それが向う先は、「事実」及びそれが構造化された「新理論」であることがわかり始めてきた。

事実の探求と、その構造化は、簡単な仕事ではない。
収束不全が、決定的に新しい不全であるとしたら、それは、有史以来、何千年もかけてつくられてきた、ありとあらゆる観念・理論が、役に立たないことを意味する。と同時に、現実的には今後も社会を運営していかなければならない以上、最低限、これまでに作られてきた観念・理論と同程度の論理性・完成度を持った、まったく新しい理論が早急に組上げられなければならないことも意味する。気の遠くなるような、膨大な仕事量である。フリーターや失業者は勿論、できる範囲で、高齢者にも、障害者にも協力してもらわなければならなくなるだろう。

一方で、そのような未曾有の仕事を貫く課題は、きわめて明快で、「皆で事実を構造化する」だけである。

ここには、「事実共認による社会統合」というシンプルな理念に導かれ、大量の生産活動、大量の役割が生みだされる、豊かな社会イメージがある。

これまではどうだったろうか?

「個人の権利」が最高理念とされた社会。それがゆえに、必然的に権利と権利のぶつかり合いを生む、矛盾に満ちた複雑怪奇な社会構造。それを調停すべく生み出される、大量の調整業務。法曹、政治家、公務員、学者の多くがそのような仕事を専門にし、それ以外の人々にしても、多かれ少なかれそのような側面に、日常の活力の大半を注ぎ込まなければならない。信じられないことに、そこにはほとんど何の生産性も無いのに、である。

社会とは、複雑であり、難解であり、従ってそこへの参加は、相応の資質と、何より苦難に満ちた長時間の勉強の結果として許されるものだったが、とんだ思い違いである。社会はもっとシンプルでよい。むしろ、そのような社会に一直線につながる道を見抜く術をこそ、勉強しなければならない。

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