>大衆によって構成される社会は、当然、大衆(=素人)によって担われるべきであり、中でも決定的に重要な統合(とりわけ共認形成)の仕事を、「社会統合のプロ」が担っているのは根本的におかしいのではないか、その社会統合という仕事を大衆=素人の手に取り戻そうというのが、私の主張です。(6398

統合階級(政治家、学者、マスコミ)は、何故社会統合を仕事に出来るのか(社会統合で飯が食えるのか)?

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政治家は、私権存在である大衆の利益を差配することで受益者(=大衆)からの謝礼(献金や票)を受け、学者は、人類の知的追求の活動を代表、集中して行うことでより高度な成果を収めることを期待されて、しかるべき機関(大学や研究機関)から専任に見合う給料を受領している。マスコミは、放送・出版に付随する広告料収入と購読料・受信料を得ている。対して非(被)統合側の多くの人々はどうか。直接的な市井の需要に応える(=労働する、生産する)事で報酬を得ている。両者を比較した場合、統合階級の「飯の種」は極めて分かりづらい。

統合側は、公共的な統合や理論追求又は技術革新、情報伝達をあたかも大衆から預託されているよう見える。しかし、こうしたこと(統合課題)を職業化しようとする(もしくは出来る)根拠は何なのか?

かつての統合は武力支配である。武力支配国家が民主化を敢行するのは、異国との武力衝突が懸念される下での「近代化」故であり、事実として統合者は、世襲や、武力による討伐ではない公選制に移行している。その際、統合職を専任化=職業化したのは何故か?

商才や技能を持つものは、その才を生かして直接的に需要に応えればよい。問題はそうした生存の手法を持ち得ない人々である。彼らは生産にも労働にも向いていない。彼らは国家や社会が近代化する時代、労働者や生産者が大量に関係しあう社会状況における関係課題や近代国家として先鋭化される観念課題を己が職業として成立させる機会を得る。特に政府を司る究極の統合者は、国家レベルへ発展した私権闘争を根拠に、近代国家の統治者、指導者としてその職を得、御用学者や物書きもこれに追随し基盤を確保する。

確かに国家が国家である必然は、同種の闘争圧力の存在であり、小国に分断された国家は、それだけで国家間闘争の能力を低下させる。しかし、その際の統治者、指導者が職業化される必然は、専任による高度化期待を措いて他にはなく、寧ろそのこととは別に自らの存在基盤=権益を求めたとしたらどうか。封建社会が崩れ序列闘争の可能性が広がったその瞬間に、彼らが自らの権益を保持しようとしたとしてもなんら不思議は無いだろう。恐らくそうした権益化は高度化を理由に正当化(もしくは無視)されたものと考えられる。また、マスコミに至っては売れない物書きが、単なる広告媒体に身を窶した瞬間、その広告性故の世論操作(共認支配)が可能になり、脅迫的な権力を保持するに至ったものだと考えられる。

彼らが社会統合で飯を食えるのは、前時代的な仕組みとして、統合課題や共認課題が序列闘争下の「飯の種」として権益化=権力化されているからであり、言い換えれば自らの飯の種であるが故に元々大きな限界を孕んでいるのだと言える。社会課題は決して飯の種としてはならないのだと思う。

斎藤裕一