154921 なぜ哲学や法律は解りにくいのか 】で引用されている注目投稿、

>共認して貰おうとするその根本姿勢は、作者(論者)自
>身をどんどん説明思考に引きずり込んでゆく。そして
>説明思考に陥った途端に本当の探求思考は消え失せ、
>代りに辻褄合わせの思弁や詭弁やごまかしが(要するに
>人々を欺く欺瞞の自我が)引きずり出されてくる。
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仕事で法律に関して役所の人と打ち合わせたりすると、まさにこのことを実感する。

法律といえば、近代的な合理性とか理性、それを駆使する者の知性が発揮されるような気がするが、実態は全く逆で、相手を丸め込もう、説得しよう、はっきり言えば相手を騙そうという発想に至るような、まことに恥ずかしいやり取りが行われている。

相手側も同じで、僕らのことなど何とも思っていないから、自分たちの都合が最優先される。しかも、僕らがあの手この手を使って丸め込もうとしてくるのを十分承知しているから、最初っから疑って掛かってくる。

こうした不毛なやり取りが日常化しているのだが、これは、相手との間に何ら共通の課題がなく、探求過程の潜在共認など、全く存在しないと思いこんでいるからだ。そして、こうした自分の都合を押し通そうとする自己中的な発想からは、共通の課題を見つけようとか、探求過程をそのまま表現しようなどとは夢にも思わないのだ。

しかし、こうしたやり取りをうまくやっている人もいて、そうした人の秘訣は、完璧に相手を説得できる材料を用意することでも、詭弁を捲し立てて論破することでもなく、意外なことにニコニコと笑って打合せをすることだったりする。そして、正直に「どうしたら良いんだろう」と投げかけることだったりする。

役所に勤めている相手の気持ちを考えてみれば、次から次へと怪しげな業者が自分を騙そうとやってきて油断すると丸め込まれる、大過なく仕事を進めていこうという自分の立場が危うくなる、という警戒心が一杯なのに、そこへの思いやり無しには、事が旨く進まないのも考えてみれば当たり前の話だ。

法律は、個人間や個人と公共の間の利害を調整し時には強制的に従わせるという役割を持っているが、実は共認された規範そのものではない。個人と個人、個人と公共は対立するものである、という前提で書かれたツールだからだ。

そして、そのツールを自分の利益のために使う者からは、「人々を欺く欺瞞の自我」を引きずりだされてくるのである。
 
渡辺卓郎