2007年、光市母子殺人事件は、はっきり言ってメディアによる煽動(被害者への一方的な同情)が行き過ぎているのではないかと...極刑なのか?そうでないのか?という部分のみが協調され、国民の多くもメディアによる影響から、一様に裁判官になっているように感じる。真実は何かよりも、死刑なのかどうかしか煽っていくメディア、それに感情的に反応する国民やブログと、ますます混迷していく一方です。そのことについて言及しているブログを紹介します。

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きまぐれな日々
「言論が一方向に振れる時 ~ 山口県光市母子殺人事件をめぐって」
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以下引用です。

マスメディアが発達した現在、「言論が一方向に振れる時」というのがしばしば現れる。本来、対立した意見が争われるべき状況において、マスメディアによる宣伝を媒介して、極端に一方の側に支持が偏った状態が生じてしまうことだ。

~中略~

ところで、このように言論の状況が一方向に偏る状況は、何も政治的な言論の場にのみ現れることではない。社会的に話題になる事件や、サッカーや野球などのスポーツにおけるファン心理の過熱などにも見られることだ。後者はともかくとして、前者には結構な危うさを感じることが多い。

私が、前々からその例の一つであると考えているのが、1999年に起きた山口県光市母子殺人事件をめぐる言論状況である。

この事件に絡んで、事件当時18歳になったばかりだった被告を何が何でも死刑にしようという風潮を、かねがね私はとてもうさんくさく思っていたのだが、最近、「週刊ポスト」がこの風潮に疑問の一石を投げかける記事を掲載した(8月17・24日合併号)。これは、8月9日に、もそもそさんのブログ「そもそも、どーなの」に紹介されたことによって知り、私の運営する裏ブログである「kojitakenの日記」に、「光市母子殺人事件に関する週刊ポストの勇気ある記事」というタイトルの記事にして紹介したところ、45件の「はてなブックマーク」がつき、盆休みに入る週末だったというのに、8月10日、11日の2日間で計5000件近いアクセスをいただいた。

「はてブ」のコメントを見ると、賛否両論があるが、少なくともマスコミ報道やそれに影響された世論に見られるような「被告を何が何でも死刑にせよ」という主張への極端な偏りは見られなかった。こういうカウンター的言論を広めるのに、ブログという媒体は捨てたものではないと感じた次第だ。

さらにその後、雑誌「創」の2007年9・10月号に、やはりこの事件に関する一方的な言論へのカウンターとなる記事が掲載されていることを知った。本エントリではこれを紹介したいと思う。

ジャーナリスト・綿井健陽氏による「これでいいのか!? 光市母子殺害裁判報道」という記事がそれである。この記事は、下記のように書き出されている。

「光市母子殺害事件」弁護団への激しいバッシングが続いている。カッターナイフの刃が送られたり、殺害予告が届いたり‥‥。この「私刑」の雰囲気は、一体誰が作り上げたものなのか。

「広がる弁護団への非難・中傷・嫌がらせ」と題された最初の章の最後から、次の章「限度を超えたメディアの『暴走』」の最初の部分にかけてを以下に引用する。

 この裁判をめぐって、それは社会といっていいのか、それとも単に世間や大衆と言うべきなのか、いやそれともマスメディアだけなのか、その注目される部分がほかとは相当異なっている。それは「被告の元少年が何を法廷で話すか、どんな顔つきや態度なのか」という一般的な興味とは別に、「どんな弁護士たちなのか、その弁護団が何を主張するのか」という部分にゆがんだ形で向けられている。そして、そこから派生する弁護士たちへの非難・誹謗・中傷・嫌がらせ、そして相次ぐ脅迫まで、いわゆるネット空間だけの限定現象ではなく、メディアと市民が一体となった形で、この国に少しずつ広がり始めている。

限度を超えたメディアの「暴走」

 これらの現象に関して永六輔氏は、本誌(注:「創」)編集長も出演しているCS放送「朝日ニュースター」(7月21日放送)の番組の中で、「僕がテレビの実験放送から始めたとき、アメリカからジャーナリストが来て『スタジオは裁判所じゃないですす。スタジオを裁判所にしないように』と繰り返し言われた。いまは裁判所になってるでしょ。『ニュースキャスターは裁判官ではありません』と言われたが、最近は裁判官に近いでしょ」 「昔は『村八分』というこれも差別がありましたよね。今はテレビのおかげで『国八分』になっている。日本中でという形になっているのが怖い」と指摘していた。

 テレビのスタジオはもちろん、雑誌・ネット上からご近所の世間話の類まで、この事件のことに対してはみんな何かしらの意見を述べる。いわゆる「感想」を話したり、判決を「予想」したり、あたかも誰かの「代弁者」のように怒ったり、それらは「世論」の上に乗っかることが参加条件だ。繰り返されるメディア情報だけを材料に、裁判長や検事になったかのように話す。決して被告の側やそれを弁護する側ではない。この裁判の法廷は広島高裁にある302号法廷一つしかないはずなのに、その法廷以外のあちこちで別の「裁判」が進行しているといった方がいいだろうか。いや、それらは決して「裁判」ではなくて「私刑(リンチ)」に近い。

~中略~

(「創」 2007年9・10月号掲載 綿井健陽「これでいいのか!? 光市母子殺害裁判報道」より)

~中略~

 広島地方の梅雨が明けた直後の7月24日、また3日間の集中審理が始まった。広島高裁の法廷の中では今後も審理が着々と進められる。だが、法廷の外で展開するこの裁判をめぐる「報道」と「反応」は、このままではさらにエスカレートする可能性が高い。NHKニュースはこの裁判を伝える際、「18歳の元少年に死刑が適用されるかどうかが争点です」とナレーションで説明する。しかし、この裁判は「死刑」を争う裁判ではなく、ひょっとするとメディアによってあおられる「私刑(リンチ)」が、我々が住んでいる社会にどんな結果をもたらすことになるかを世に示す裁判になるのかもしれない。本当にそれでいいのだろうか。
(7月25日広島にて)

(「創」 2007年9・10月号掲載 綿井健陽「これでいいのか!? 光市母子殺害裁判報道」より)

ネット言論は、このようなテレビによる極端な意見への誘導を煽るものであるより、多様な視点を提供して、一方向への暴走に歯止めをかけるものでありたい。そのような実践を伴ってこその「反(カイカク)ファシズム」ではなかろうか。

以上引用終わり。


復讐の叫び