「パン」をとるか?「自由」をとるか?

この“(答えの出ない)究極の選択”を巡る命題は、19世紀ロシアの小説「カラマーゾフの兄弟」(「人間は良心の自由などという重荷に堪えられる存在ではない。彼らは絶えず自分の自由とひきかえにパンを与えてくれる相手を探し求め、その前にひれ伏すことを望んでいるのだ」参照:リンク)などで提起されてきた。食のために権力に伏すか否かという問いかけである。

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そして、すでに貧困が消滅して長い年月が経過した今の日本においては、

「安全」をとるか?「自由」をとるか?

という命題がマスコミら支配階級から提示されているようだ。実際、安全のために国家権力強化を志向する流れがここ数年強まってきているのを感じる。路上駐車や痴漢など軽犯罪での取り締まり強化など、法の網が以前よりも身近なところに顔を出すようになってきた。

一方で、過剰に大衆の不安感を煽るマスコミなどに対して、異を唱える動きが出てきているのも事実。例えば、『犯罪不安社会―誰もが「不審者」?―』(浜井浩一・芹沢一也著・光文社新書・2006年)など、今回のベジ紀さんと同様の事実提示や問題提起が、ネットを中心に昨年あたりから散見されるようになってきている。

ここで大切なのは、「安全」とか「自由」といった旧観念(=思考停止させる言葉)でこの問題を議論しないことだろう。むしろ「不安」の中身・事実・実態をとことん追求していく必要がある。

この作業をおろそかにすると、“「自由」よりは「安全」”という短絡的思考(→結論)が支配する世の中が現出することになる。ドストエフスキー後のロシア社会、あるいは現代のロシア社会が強大な権力へと依拠していったように。



玄武