私権序列原理が崩れ、現実の中で共認充足を得られる可能性が開かれたのですから、もはや本やドラマといった架空の世界に充足を求める必要はないのです。172837

現実が私権闘争に支配されていた頃、人々は失われた共認充足を架空世界に求めた。それが代償充足としての“涙”や“笑い”であり、映画やテレビを爆発的に普及させる原動力となった。貧困が消滅し、私権が衰弱し、共認充足の可能性が開かれた現在、これら代償充足を生み出すメディアはことごとく見捨てられ始め、代わりに人々の“現実”=本能回路や共認回路は、生々しい仲間充足や現実課題に鋭く反応するようになった。

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一方、90年代以降、経済のグローバル化と金融支配が進み、社会格差の拡大が嘆かれ、現在はドル暴落による金融恐慌の不安が喧伝されている。共認充足の可能性が開かれた時代である筈にも関わらず、世界はむしろ私権闘争が拡大・激化し、その支配力が強まっているようにも見える。

しかし、もう一度改めて考えてみると、金融支配だ、格差社会だ、原油高騰だ、ドル暴落だと幾らメディアで騒がれても、庶民の方は実はそれほど実感があるわけではない。漠然と何か不味そうだとは思いつつも、貧困の時代のような追い立てられるような危機回路の作動は無く、実際の日々の生活に大して変化があるわけでもない。これはどういうことか?

ある人が言った。「これは、統合階級が己の“身分”を維持するための『演出』に過ぎないのではないか?」

サルの序列であれ、中世の身分制度であれ、近代の資本競争であれ、どの時代にも何らかのヒエラルキーは存在し、その中でポジションを得ることは絶対課題だ。私権ヒエラルキーが意味を失った現在、実はその頂点に座していた支配階級の身分維持欠乏だけが現実であり、メディアが強烈に煽る経済不安も金融危機も、その無意味さを庶民から隠し、旧序列構造と彼らの身分を延命させるために演出された架空世界なのではないだろうか。

だとすると、これから始まる同類闘争=共認闘争とは、共認充足の現実に立脚した新たな活力とヒエラルキーの顕在化によって、統合階級とメディアが描く私権世界の架空性を暴く戦いなのかも知れない。
 

田中素