まず、「人権」とか「権利」とかを謳ってくる人の事を考えると、何やら強制的な意志を押し付けられているようで嫌悪感に包まれる時がある。
そこで一体、この有無を言わせず押し付けてくる事を許容する人権って何なのだろう?と思った。

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調べてみると、人権思想というのはどうやら西欧民主主義の基本的理念の一つらしい。そして人権が成立する論理としては、創造主且つ絶対的な存在である神が、「個人の権利」という誰にも奪われる事の出来ない物を与えた。だから「神の意志」そのものである「個人の権利=人権」は絶対。つまり「人権」は「神の意志」なんだから、何がなんでも言う事を聞きなさいという事になる。結局、人権思想とは人権神授説そのもので、基本的人権を謳うという事は、キリスト教の形を変えて布教しているような物なのである。なるほど絶対神信仰が無いと理解は出来そうにない。

日本において「基本的人権の尊重」という個人を基礎とした概念が根付く事になったのは、戦後の日本国憲法で謳われる事になってしまったからで、謂わば日本の集団性を疎ましく思ったアメリカの洗脳プログラムの一つと見てとれる。統合する側にとって大衆は団結した集団では無く、何も考えない烏合の衆であった方が操作しやすい。そして日本の憲法を土台に制定される刑法等、ありとあらゆる法律全てにおいてこの「基本的人権の尊重」という概念は隠れた前提として存在し、日本人の思考を集団から個人を前提として考えさせる事に成功する。キリスト教という大衆操作を目的とした洗脳手段は形を変えて日本に入ってきているのだ。

そこで、最近言われている裁判員制度の事が気にかかった。裁判員制度の開始は半ば強制的に進み、最早足止めする事は難しそうだが、この制度が開始されれば、否がおうにも「個人の権利」を前提とした法律を解釈し、「個人の権利」を前提とした法律を元に判断せざるを得ない。西谷氏が仰る通り、アメリカにとって裁判員制度はメディアによる感情論支配を容易にし、さらに法律を解釈した所で結局はアメリカが操作しやすいよう去勢されるだけである。

アメリカ→官邸→マスコミの流れで、いよいよ日本が心底から略奪されていくような気がした。




むはひふ