潮流1から9まで勉強して、共認という原理を知り、私の中で大きな変化がありました。その変化の中で気づいたことがいくつかあります。

 1つ目は、人が感じる自身の生に対する価値(自分の生きている意味って何だろう?)は、周りの人との関係の中にあるということです。私はこれまで、自分の生きている意味を自分の中に求めてきましたが、見つからず終いで、人間は皆等しく生きている意味は無く、自分の生に意義付けし、それを生きる価値と見なして生きているのだと考えていました。あるいは、私は自分の生の意義付けに失敗したのかもしれません。それは当然のことで、生の価値を感じ得る時は充足状態にある時で、自分の周りの人との関係抜きには充足されることもないからです。したがって、本来生の価値は自分の内に求めるものではなく、むしろ自分の外に構築するものだったのだと気づきました。

 2つ目は、自分が共認不全であり、収束不全の状態にあったことに気づいたことです。私はこれまで、漠然とした不安感や孤独感を感じていて、この原因は一体何なのかという疑問を常に抱えていました。そうした中、日本における自殺率の高さに興味を持ち、大学のゼミの卒論で自殺の社会学的・統計学的考察しようと思ったのは、必然だったのかもしれません。個人主義化により解体された人と人との「つながり」は疑心暗鬼に陥って、加速度的に共認不全のデスパイラルをつくり、人を孤立化させていく。まさに自分が感じる孤独感の原因はこれであると気づき、当時の私は思想を右傾化させていきました。しかし、個人主義から序列原理の全体主義に移行させたとしても根本原因は解決されないと思います。つまり、孤独感を感じる根本的原因は個人主義化ではなく、それによる共認不全状態なのだと今は考えています。
また、私は末期思想であって(大学のゼミも教授の書いた「終末の予感」という本に読んで受講を決めた)、漠然と世界が崩壊に向かっているような、しかもその崩壊は遠い未来ではなく近い将来に起こるのではないかと思っていました。むしろそうあってほしいという願望だったのかもしれません。私権原理によって構成された社会が内包する矛盾・歪みが、私の潜在思念に終末を予感させていたのかも知れません。私権原理で統合されている社会以外を知らない私は、まさに潮流6での収束不全状態にあったのです。

 最後に、共認原理を知り自分の考え(及び行動)に大きく変化があったことに気付いたことです。私は今まで、個人主義に疑念を抱きつつも、これによって社会が構成されていると考えていたため、人間のいわゆる共認不全状態はどうしようもないものだと考えていました。社会は私権原理と、しかしながらそれだけでは回らないので、「思いやり」や「いたわり」といった【気持ち】で構成されているのだと。その「思いやり」「いたわり」といった共認的なものを原理として理論展開することなく、ただただ不全感を垂れ流す社会を否定視していました。
しかし、人類の共認形成の歴史を潮流1から学ぶことによって、共認機能なくして私権原理の社会は存在し得ず、本来人を動かし得るのは共認原理なのだと知りました。私の中の「あきらめの思考」から、一転して収束可能性・方向性を見出すことができ、充足への課題提起も出来るようになりました(あきらめ思考では課題もなにもない)。共認機能に着眼した思考による日々の行動で、自分のまわりの人を(また、スパイラル的にその外まで)共認充足させていくことが出来ると考えています。




ぽちゃ 
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