アダム・スミスは、「国富論」として、経済社会の理論を構築しようとした。
重商主義と重農主義の論争では、勿論、富の増進は労働による生産の増進であるとの立場に立っている。(これは、マルクスに繋がる労働価値学説である。)

アダム・スミスをもって、市場経済学が成立したとするのは、重商主義か重農主義かではなく、「経済学(エコノミー)」を哲学・倫理学から、欲望(私益追求)肯定の「市場原理学」に転換させた点である。

ギリシャ古典の常識では、エコノミー(経済)は、国家経営の学であり、政治学・政治倫理学そのものである。その伝統を受け継いだ「キリスト教」でも、エコノミーは教理・倫理の下に規範化されている。(だから、貸付金利が禁止されている。)

アダム・スミスは、市場拡大(国富拡大)の時代を観察し、市場拡大・生産拡大、資本家・企業主、地主・農園主の生産拡大の原動力が、至って私益(欲望)に基づいていることを発見する。決して、社会倫理(例えば社会に必要かどうかの考察)に基づいていないことを見て取る。

「企業家・農園主の行動を決めるのは、儲かるか損するかだけである。そして、儲かるか損するかは市場が決めている。」と見て取った。そして、この企業家・農園主の欲望解放が、国家全体の生産を増大させている。

国富論の骨子は、だから。

1.個々の経済主体は、己の欲望(私益)によって行動する。
2.欲望行動は、市場における需給関係がもたらす損益を見て行動する。
3.上記メカニズムにより、国民経済は秩序化され、国富は拡大する。

個別経済主体の欲望を全面的に肯定した上で、市場(需給関係)により、その欲望行動が変化・転換し、結果として国富が増大するとの理論を打ち出した。

アダム・スミスにとって、国富増大が関心事項であった。一方で、その国富増大を担う経済主体は、国富ではなく私益にしか関心がない。

この両者をつなぐ「概念」が、市場という「神の見えざる手」の規定である。「神の見えざる手」によって、私益が国富に転化するとの理論宣言を行ったのである。

キリスト教世界なので、「神の摂理」「神の真意」が絶対である。その軸上では、「私益」は否定的なものである。だから、「神の見えざる手」と表現し、キリスト教教理から経済学を切り離したのである。
「見えざる手」は、誰もその存在被疑を追及できないのである。



レオンロザ 
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