『実現論 第一部前史 ニ.サル時代の同類闘争共認機能』 を学んだ。


樹上に生活の場を求めた原猿達はそこで陸・海・空とは異なる第4の世界を構築し、安住の楽園を手にする。
しかし、その先に原猿達を待ち受けていたものは同類同士の縄張り闘争という過酷な現実だった。

縄張り闘争に敗れ、性本能も満たされない多くの弱雄達は本能の混濁という未明課題に陥っていく。


<以下引用>
不全課題を抱えて依存収束した弱オスたちは、依存し合う中から、「どうする?」⇒「どうにかならないか?」と可能性を相手に求め、互いに相手に期待収束してゆく。こうして、依存収束⇒期待収束し、互いに相手を注視し続ける内に、遂に相手も同じく依存し期待している事を発見し(探り当て)、互いに相手の課題=期待を自己の課題=期待と同一視して理解し合うに至った。自分以外は全て敵で、かつ怯え切っていた原猿弱者にとって、「相手も同じく自分に依存し、期待しているんだ」という事を共認し合えた意味は大きく、双方に深い安心感を与え、互いの不全感をかなり和らげることが出来た。この様に、不全感を揚棄する為に、相手の課題=期待を自己のそれと重ね合わせ同一視することによって充足を得る回路こそ、(未解明だが、おそらくは快感物質βエンドルフィンを情報伝達物質とする)共感回路の原点である。この安心感+が、相手+⇒仲間+共感を形成し、原猿たちは不全感の更なる揚棄を求めて、より強い充足感を与える(=得る)ことのできる親和行為(スキンシップなど)に収束していく。そこでは、相手の期待に応えることが、自己の期待を充足してもらうことと重ね合わされ同一視されている。つまり、相手の期待に応え充足を与えることは相手に期待し充足を得ることと表裏一体である。従って、相手の期待に応えること自体が、自己の充足となる。共感の真髄は、そこにある。共感の生命は、相手(=自分)の期待に応望することによって充足を得ることである。こうして、不全感に苛まれ本能が混濁したサルたちは、その唯一の開かれた可能性=共感充足へと収束することによって、はじめて意識を統合することができた。これが、サル・人類の意識の、第一の統合様式たる共感統合の原基構造である。

<引用終わり>

この行為は『依存』を悪しきものと捕らえる現代的価値観からすれば「負け犬同士で傷を舐め合っているだけの現実逃避」と映りがちだ。

しかし、この『依存』こそが他者への共感の始まりであり、やがては支えあいや助け合いという現代の社会道徳=共認原理へと繋がっていく事を考えれば、現代人の様々な精神的不全の根本原因はこの依存を悪しきものと捕らえる考え=自分の身は自分で守るという個人主義的観念といえるのではないだろうか?

実際、現代人は社会道徳の基盤を見失っている様に感じる。
(何が正しい事なのかその根拠を見出せないから価値相対主義に陥っている)

恒常的不全と言葉で語ることは簡単だが、実際に原猿の弱雄達が感じ続けてきた苦悩は、生まれた時から平和と飽食に満たされていた我々現代人にはにわかに想像し難いものであったのだろう。

そして今も我々の中に存在する支えあい助け合いの精神の原基構造たる共感機能が2000万年にも及ぶ原猿達の長き葛藤から生まれたものであると知った時、彼らに対する感謝と畏敬の念が沸いてくる。

近代思想における支えあいや助け合いの根拠は『人権』とされてきているが、「人間が人間として生まれながらに持っている権利」などと原猿達が聞けば彼らは呆れるだろうか?

実際、人権を根拠に社会道徳を説く現代人を殆ど見た事が無い。
人間のみが特別である等という根拠無き傲慢な屁理屈からは真の社会道徳など生まれるはずもないからだ。






鎌塚裕二郎
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