資本主義が「お金絶対の世の中」を作りあげ、市場は今やばくち経済。
共同体がなぜ失われたのか?資本主義は消費行動を通してしか「自分らしさ」を表現できないという若者へのイデオロギーを生み出した。

内田樹さんのブログを紹介したい。
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資本主義は口が裂けても「共同体の再構築」ということは提言できない。
もちろん、消費者たちに最低限の消費活動を担保することと、人口の再生産のために「核家族」くらいまでは許容範囲だが、それ以上のスケールの共同体ができてしまうと(親族であれ、地域共同体であれ、「疑似家族的」集団であれ)、消費行動はたちまち鈍化してしまう。

経済学者がさっぱり言わないので、私が代わりに申し上げるが、そういうことなのである。互助的・互恵的な共同体が機能すると、消費活動は抑制される。考えれば、当たり前のことである。

共同体に帰属していれば、耐久消費財のほとんどは「買わずに済む」からである。
誰かが持ってれば「貸して」で済む。
お金もそうだ。
誰かが持っていれば「貸して」で済む。
銀行もサラ金も要らない。
金融商品もさっぱり売れない。
だって、それは「博打」だからだ。
「みんなの財布」を持ち出して鉄火場で博打をしようと思うんですけど・・・という提案が共同体内部で合意を獲得することはきわめて困難である。「やるなら自分の手銭の100円玉使ってやれよ」という話である。

経済的に互恵的・互助的な共同体を形成すると、資本主義的な消費活動は一気に鈍化する。だから、後期資本主義は久しく全力を尽くして「共同体形成」に反対してきたのである。

~中略~

その「結果」として若い世代の方々は「共生する能力」を深く損なわれたのである。彼らの責任ではない。
教育も、メディアも、思想家たちも、率先して「誰にも決定を委ねない、自分らしい生き方」を推奨してきた結果、「共同体の解体」と「消費主体の原子化」が晴れて実現して、こうなったのである。

日本社会が官民を挙げての努力のこれは「成果」なのである。
「共同体の再生」という大義名分には反対する人はいないだろう。けれども、それが「消費活動の冷え込み」を伴うという見通しについては、「それは困る」と言い出すだろう。

申し訳ないけれど、これはどちらかを選んでもらうしかない。
資本主義者のみなさんにご配慮いただきたいのは、限界を超えて「原子化」した人間はもはや消費活動さえ行わなくなるということである。

その話をしよう。
私たちの社会では、だいぶ前に「消費行動を通じてはじめて『自分らしさ』は基礎づけられる」ということがルール化された。
どんな家に住み、どんな車に乗り、どんな服を着、どんなワインを飲み、どんな音楽を聴き、どんなレストランで飯を食うか・・・といった一連の「商品選択の偏り」のことを「アイデンティティ」と名づけることにしたのである。

ブルトンの言い回しを借りれば、「私が何ものであるか」は「私が何を買ったか」によって定まることになった。
「消費を通じてしかアイデンティティは基礎づけられない」というこのイデオロギーの脅迫の下で、人々は必死になって消費に励んだ。
中には借金をしてまで「自分らしさ」を誇示できる商品を買うものさえいた。
けれども、さすがにみんなも疲れてきた。
そして、「消費に使う金が十分に用意できない」と泣訴する人々が登場した。消費行動がとれない人間はアイデンティティを持てないなら、消費行動を通じて「自分らしさ」を表現できない人間は「私はまだ『私』になっていない」というねじれた自己規定を強要されることになる。
「ひきこもり」とか「ニート」と呼ばれる非活動的な諸君は、おそらく「私はまだ『私』になっていない」というふうに自分自身をとらえているのではないかと思う。

~続く~
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