2600年前、同時期に仏教・儒教・ユダヤ教という古代宗教が登場し、その300~400年後にそれぞれの地域で統一国家が成立した。

それまでの部族連合国家では守護神信仰や神話の共認によって統合されていたが、部族間の緊張圧力や交易や連合、さらには服属部族をどう支配するかといった課題に対しては、部族間の意思疎通が不可欠であり、その部族の中でしか通用しない守護神や神話では統合できない。部族を超えた普遍性のある観念が必要になった。こうして各部族の潜在意識のレベルで社会統合機運が上昇し、それを鋭敏にキャッチして、守護神や神話を超えた、より普遍的な観念(古代宗教)を作り出したのが、釈迦や孔子やユダヤ教の預言者たちである。

そこでは、(普遍性の高い)抽象的な概念が前面に出てくる。例えば、儒教であれば「仁」が最高価値とされた。弟子たちは孔子に「仁とは何か?」と何回も問うが、孔子はその定義を明確に答えるわけではなく、事例を述べるだけであった。

観念機能は、言葉回路と文字回路に分解することができるが、孔子と弟子たちの対話による問答で使われているのは言葉回路である。話し言葉は本能・共認回路に直結させやすいので、「仁」などの抽象概念もいちいち文字回路の位相に置き換えて使われるのではなく、話し言葉の地平で使われていたに違いない。

そして、孔子の弟子たちは(釈迦の弟子たちも)その問答を文字として書き留めた。なぜ、彼らは文字として書き留めたのか?

話し言葉は瞬間瞬間で消えてゆくのに対して、文字は内容を眼前に存在させ続ける。求道者であった孔子や釈迦と同じく求道者であった弟子たちにとって、文字として固定すれば、瞬間に消えてゆく話し言葉よりも深く探求したり、体系化することが可能になる。その必要から、彼らは文字として書き留めたのであろう。

それに対して、近代~現代の学者は求道者ではなく、単なる解釈者にすぎない。とりわけ明治以降の日本の学者がやってきたことは、西洋の学問を解釈し理解することであった。しかし、西洋発の近代思想はもはや終わっている。

現在求められているのは、新たな理論体系を構築する求道者である。
このような時代の位相から考えても、理解主義や解釈主義が今や無価値であることは明らかではないだろうか。

解釈主義に立つ以上、思考はそれに支配され、トコトンまで洗脳され、それを超えた発想は出てこない。それに対して、求道者は自らが生み出した新しい観念に支配されてしまうのではなく、その観念を足がかりにしてさらに新しい認識の体系を構築してゆく。このように求道者と解釈者というパラダイムが違えば、同じ文字を使っても、その思考の自在さは全く違ってくる。






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