戦後民主主義教育とは、バカな大衆を作る教育だったのではないか、という記事を紹介したいと思います。

中学校教員をされている方のブログ「数学屋のメガネ」、
「[教育]戦後民主主義教育の欠陥はアメリカの民主主義教育の欠陥と同じだった」リンクからの引用です。

(以下引用)

昨日のメーデーの集会の帰りに寄った書店で刺激的で面白い本を見つけた。『バカをつくる学校』(成甲書房)という本で、著者はジョン・テイラー・ガットという、ニューヨーク州で最優秀教師として表彰された人だ。ここではアメリカの義務教育学校が批判されているのだが、その批判がそっくりそのまま日本の学校に当てはまるのを見て驚いた。

僕は、小室直樹氏の指摘によって、戦後民主主義教育の欠陥というものを考えるようになったのだが、それは日本だけの特殊な状況ではなかったのだ。実は、日本が手本にしたアメリカの民主主義教育にそもそも欠陥があったために、その忠実なコピーとしての日本の教育にもそっくりそのまま欠陥が移されてしまったというのが、戦後民主主義教育の正しい理解ではないかと感じた。

(中略)

ジョン・テイラー・ガットさんの指摘を見ていると、そこで語られているのは義務教育学校の欠陥だ。これはより抽象化して言えば、大衆教育の欠陥ということができるだろう。アメリカという国の統治権力が、大衆に期待している資質を教育する学校として義務教育学校を考えた場合、大衆がバカであってくれたほうが都合がいいという意図がかなり見えるようなのだ。アメリカにおける「バカをつくる学校」は、努力したにもかかわらず結果的に間違った教育をしてバカをつくってしまったというのではなく、かなり意図的にバカをつくっているようなところがあるのを感じる。

そもそもアメリカの民主主義というのが、実は資本主義の繁栄を支えるような社会を維持することを目的としているのではないかいう感じもする。資本主義の繁栄のためには、自分の生活を反省して自分の頭でよく考える人間よりも、刺激に対して単純に反応して気分的に快感を得ることを好むような消費者が多くいたほうが、資本主義的な大量消費のためには都合がいい。

民主主義教育の欠陥は、資本主義の物質的豊かさを維持しようとする意図を単純に捉えるところから生じるのではないかと思える。おそらくその欠陥を埋める部分がエリート教育の中にあるのではないかと思う。それは、かつて先進国に追いつこうとして暗記教育に偏った日本の古いエリート教育ではなく、先駆者としての意識と実績を正しく反映したエリート教育にならなければならないのではないかと思う。

資本主義的な豊かさを単純に肯定すれば、「バカをつくる学校」としての大衆教育にならざるを得ないのではないだろうか。資本主義の発展と維持のためには、少数のエリートと大多数のバカな大衆をどうしても必要としているのだろうか。もしそうであれば、資本主義的な豊かさというのは、必ずしも人間を幸せにはしないといえるだろう。

(中略)

バカをつくる大衆教育は変えられなければならないと思う。大衆の中にもスペシャリストをつくるようなエリート教育が必要なのではないだろうか。かつて、貧しいながらも自分の仕事に誇りを持っていた人々がいたように、特別の分野では指導的立場に立てる大衆を育てるという教育が、今の「バカをつくる学校」を克服するためには必要なのではないだろうか。

日本の教育制度のように、単一のモノサシで序列化して、そのモノサシで評価されたもののみがエリートになり、落ちこぼれたものは大量の「バカな大衆」になるように運命付けられた教育は、未来においてはかえって資本主義を衰退させるようになるのではないだろうか。

この本は実に刺激的で面白い。書かれている内容のすべてが考察に値すると感じる。これから細かく一つずつ取り上げて考えていきたいと思うが、まずは冒頭に書かれている義務教育学校の欠陥としての「一貫性のなさ」の指摘を紹介しよう。この本では次のように書かれている。

「実際、私の教えることにはまったく脈絡がない。何もかもがバラバラで、めちゃくちゃである。惑星の軌道、大数の法則、奴隷制、形容詞、設計図、ダンス、体育館、合唱、集会、びっくりゲスト、避難訓練、コンピューター言語、保護者会、教員研修、個別プログラム、ガイダンス、実社会ではあり得ない年齢別のクラス……。いったいここにどんな一貫性があるというのだろう。」

ここでの指摘は、学校で教えていることの全体を把握して、その横のつながりを考える人間がいないということの指摘だと思う。それぞれの教科は、その教科にとって大事なことを教えようとする。これは、教科に携わる人間の利権でもある。教員はまさに当事者としてそうだし、教科書を執筆する人間や、問題集を作成する会社なども大きな利権を持っているだろう。その利権を小さくするようなことはあまり行われない。そのため、かなり無駄な知識だと思われても、学校教育からそれが削られることがない。

僕は、中学校数学の大部分はいらないと思っている。義務教育の学校が大衆が学ぶ学校という意味で考えるなら、専門的な知識は要らないと思う。むしろ基本的なものの考え方をもっと深く知るべきだろう。それこそが大衆の中にエリートを作り出す基礎になるものだ。基本的なものの考え方を深め、それを基礎にして自分の個性にあった専門分野に進むというのが、大衆教育を基礎にしたエリート教育と呼べるのではないだろうか。

もしそのような過程を経て誕生した大衆が増えれば、専門教育分野においては、誰が真に優れた人間かを判断することも出来るようになるだろう。見かけにだまされるのではなく、本当の実力を持った人間が指導的立場につくようなシステムが誕生することが期待できる。今の大衆教育では、まったく専門を持たない、ものの考え方の基礎訓練がされていない大衆を生み出しているので、見かけにだまされた見栄えのする指導者に酔いしれてしまうような状況が生まれる。ファシズムにとっては実に都合のいい状況だろう。

民主主義教育は本質的な欠陥を持っている。すばらしいものでもなんでもない。学校がいやだった自分の気持ちは正しかったと、この本を読んでそれに確信が持てた。さらに批判の細かい部分を読み込んで、抽象論としての民主主義教育の欠陥が、現実の日本の戦後民主主義教育にどのように現れているかを考えてみようかと思う。

(以上引用終わり)





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